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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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龍になれなかった少年 5


相談室は静まり返っていた。蒼蓮は語り終え、静かに視線を落としている。湯呑みから立ち上る湯気だけが、ゆっくりと揺れていた。長い沈黙、尊はその沈黙を壊さなかった。相談者が自分の人生を語り終えたあとに流れる静けさも、この場所では大切な時間だからだ。やがて蒼蓮が、小さく呟く。


「……ずっと後悔していました。父上を失望させました。私は龍にもなれませんでした」


その言葉を最後まで聞いてから、尊は初めて口を開いた。


「蒼蓮」


穏やかな声だった。責めることも、慰めることもない。ただ、まっすぐ相手へ届く声。


「君は、龍になれなかったんじゃない…」


蒼蓮が顔を上げる。尊は静かに微笑んだ。


「君は、人になれたんだ」


その一言に、蒼蓮の瞳が大きく揺れた。


「……え?」

「龍になることよりも、困っている誰かを助けることを選んだ。父上に認められる未来よりも、目の前の命を選んだ」


尊は優しく続ける。


「その選択は、龍にはできなかったのかもしれない。でも、人にはできた。だから君は誰よりも、人らしかった」


蒼蓮の唇が震える。長い年月、誰にも言われなかった言葉。誰よりも欲しかった言葉。その言葉が、静かに胸へ落ちていく。気づけば涙が一筋、頬を伝っていた。


「私は……間違って、いなかったのでしょうか」


尊はゆっくり頷く。


「間違いだったかどうかは、僕が決めることじゃない。でも助けられた少女は…きっと今でも、君に『ありがとう』と言うと思う」


蒼蓮は目を閉じた。あの日の笑顔が浮かぶ。崖の下で泣いていた少女。小さな手、震える声。


『ありがとう』


その記憶だけは、一度も後悔したことがなかった。蒼蓮は静かに涙を拭う。その表情は、相談室へ来た時よりも少しだけ穏やかだった。尊は文机の上へ静かに手を置く。


「蒼蓮、ここへ来た人には三つの道がある」


蒼蓮は静かに耳を傾ける。


「一つ。この異世界相談所で、心が落ち着くまで過ごすこと。二つ。輪廻の輪へ還り、新しい人生を歩むこと。そして、三つ…」


尊は蒼蓮を見つめる。


「少しだけ時を遡り、人生をやり直すこと。ただし、未来がどう変わるかは誰にも分からない。変わってしまった未来について、僕は責任を取ることはできない」


相談室は静かだった。蒼蓮は目を閉じる。長い時間をかけて考えた。そして、ゆっくりと顔を上げる。


「私は、やり直しません」


尊は黙って頷く。蒼蓮は穏やかに笑った。


「あの日、あの少女を助けた私を…今は、誇りに思えます。だから、その人生の続きを、受け入れて歩いていきたい」


尊の表情が柔らかくなる。


「そう。その選択、受け取った」


ーパンッー


尊が静かに柏手を打つ。何もなかった空間に、一枚の古い木の扉が現れた。扉の隙間からは、柔らかな光だけが漏れている。その先に何があるのか、尊も知らない。蒼蓮は立ち上がる。尊へ深く頭を下げた。


「ありがとうございました」

「こちらこそ人生を聞かせてくれて、ありがとう」


蒼蓮は穏やかな笑みを浮かべ、扉へ向かって歩き出す。扉を開くと、眩しい光が彼を包み込んだ。やがて、その姿は静かに消えていった。相談室には、再び静寂が戻る。尊は立ち上がる。壁一面に並ぶ、名もない本棚の前へ歩いた。一冊の本を取り出す。先ほどまで白かった背表紙に、金色の文字が浮かび始める。


『蒼蓮』


尊は最後の一頁を静かに書き加えた。


『人を救うために選んだ道は、たとえ宿命に背いても、決して間違いではない』


筆を置き、本を閉じる。そして、本棚へ戻した。本は淡い光を放ち、吸い込まれるように元の場所へ収まる。その光景を眺めていた尊は、ふと隣にある一冊へ視線を向けた。真っ白な背表紙、題名はない。光ることもない。ただそこにあるだけの本は、まるでまだ誰にも読まれていない人生のように、静かに息を潜めていた。尊は首をかしげる。


「……これ、誰の本なんだろう」


松平は静かに本棚を見つめたまま答えない。尊も、それ以上は気にしなかった。


「まあ、いつか分かるよね」


そう笑って、本棚をそっと閉じる。止まった時計は、今日も動かない。けれど、その針は壊れているわけではないのかもしれない。ただ、まだ鳴っていない時間を待っているだけ。まだ名を持たない白い本もまた、誰かの人生が書き込まれるその時を、黙って待っているのだろう。異世界相談所には、終わったはずの時間が、今も静かに息をしていた。


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