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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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白衣を脱げなかった医師 1

【備忘録】


救えなかった命を背負い続けたあなたは、それでも誰かを救うことをやめなかった。その白衣は、命だけでなく、人の希望を支え続けた証である。


ー尊ー


縁側を渡る風が、四季庭の草木を静かに揺らしていた。春の桜が花びらを舞わせる隣では、青々とした若葉が陽を浴び、少し離れた場所では紅葉が色づいている。さらにその奥では、雪が音もなく積もり、小さな池では錦鯉がゆったりと泳いでいた。季節という境界が存在しない庭。世界と世界の狭間にある、異世界相談所。尊は縁側に寝転び、湯呑みを片手に空を見上げていた。


「……今日ものんびりだねぇ」


穏やかな声が庭へ溶けていく。近くでは、鹿威しが静かな音を響かせる。


ーコーン……


風鈴も、チリンと小さく揺れた。尊は目を細めながら笑う。


「こうしてる時間が、一番好きなんだよね」


その少し後ろで、松平が静かに立っていた。少女のような整った顔立ち。感情をほとんど表に出さない穏やかな表情。


「尊様、お茶が冷めます。」

「うん」


そう返事はするものの、尊は起き上がらない。


「あと少しだけ、空を見ていたい」


松平は小さく息をつき、湯呑みへ新しいお茶を注いだ。

その時だった。


ーカランー


静かな鈴の音が相談所へ響く。尊はゆっくりと目を開いた。


「来たね」


松平も静かに頷く。


「新しい相談者様です」


尊はゆっくり起き上がり、大きく伸びをする。


「じゃあ、お願い」

「かしこまりました」


松平は一礼すると、静かな足取りで受付へ向かった。受付の壁には、世界中の時計が並んでいる。柱時計、懐中時計、振り子時計、砂時計、魔法で動く時計。相談者が生きていた世界の時計も混ざっている。しかし、そのどれ一つとして動いてはいなかった。松平はその前を静かに通り過ぎる。時計は止まったまま。時間を失った者たちが訪れる場所では、それが当たり前だった。受付の奥には、一枚の扉がある。松平は静かに扉を開いた。


その部屋は、現代的な当直室だった。白い壁、簡素なロッカー、机の上には読みかけの医学書。窓際には、小さな観葉植物。仮眠用のベッドには、一人の男性が静かに横たわっていた。ここは病院ではない。けれど…相談所そのものが、その人の記憶を読み取り、一番安心できる部屋を形作っている。男性はゆっくりと瞼を開いた。


「……ここは」


身体を起こす。見覚えのない部屋だった。それなのに、消毒液の匂い、静かな空調の音、机に置かれた聴診器。それらすべてが、不思議なほど心を落ち着かせていた。


「病院……?」


そう呟いた時、控えめに襖が開いた。静かな足音、松平が部屋へ入ってくる。


「お目覚めですか」


男性は驚きながら振り向いた。


「あなたは……?」

「私は松平と申します」


穏やかな声だった。感情を大きく表へ出すことはない。けれど、その声音には相手を安心させる優しさがあった。


「こちらへどうぞ」


男性は戸惑う。


「私は……ここは、どこなんですか」


松平は静かに微笑んだ。


「異世界相談所です。人生に大きな後悔を残した方だけが辿り着く場所」


男性は言葉を失う。何かを思い出そうとする。けれど、最後の記憶だけが霞んでいた。


「私は……思い出せない」


松平は無理に答えを求めない。


「大丈夫です。お話をすれば、きっと思い出せます」


その言葉に、男性は静かに頷いた。


長い廊下を歩く。窓の外には四季庭が広がっていた。桜、紅葉、雪、蛍。すべてが同じ景色の中にある。男性は思わず立ち止まる。


「綺麗だ……」


その一言だけが自然に漏れた。張り詰めていた肩の力が、少しだけ抜けていく。松平は何も言わず、歩幅を合わせて歩いた。やがて一枚の扉の前で立ち止まる。


ーコン、コンー


静かなノックが響く。


「尊様、相談者様をお連れいたしました」


部屋の向こうから、穏やかな声が返ってくる。


「どうぞ」


松平は扉を開いた。


「失礼いたします」


男性は一歩、中へ足を踏み入れる。そこは先ほどまでの病院とは違い、落ち着いた木の温もりを感じる相談室だった。窓からは四季庭が見える。テーブルには二つの湯気の立つコーヒーカップ。どちらも同じ香りだった。部屋は、相談者が最も落ち着ける空間へ姿を変える。だから医師である彼には、見慣れた応接室のような雰囲気になっていた。窓際には、一人の青年が穏やかな笑みを浮かべて座っている。


「いらっしゃい」


その声は、不思議と緊張をほどいてくれた。男性は静かに一礼する。そして、ゆっくりと席へ座った。尊は自分の前のコーヒーを一口飲み、柔らかく微笑む。


「温かいうちに、どうぞ」


男性はカップを手に取る。香りだけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。一口飲む、懐かしい味だった。男性は静かに尊を見る。


「話をしても……よろしいでしょうか」


尊は穏やかに頷く。


「もちろん」


その一言に背中を押されるように…救命医は、自分の人生を語り始めた。


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