白衣を脱げなかった医師 2
救命医は、湯気の立つコーヒーへ静かに視線を落としていた。部屋には穏やかな静寂が流れている。窓の外では、桜の花びらが風に舞い、その向こうでは雪が静かに降っていた。まるで時間だけが、この場所を避けて流れているようだった。尊は何も急かさない。同じコーヒーを一口飲み、静かに相手を見つめている。救命医はゆっくり息を吸い、小さく頭を下げた。
「私は、小さな頃から医師になりたいと思っていました」
尊は穏やかに頷くだけだった。
「父も母も医療とは関係のない仕事をしていました。家系に医師はいません。ですが、幼い頃に祖父を病院で看取った日のことだけは、今でも鮮明に覚えています」
救命医の声は落ち着いていた。まるで、一つひとつ記憶を確かめるように言葉を紡いでいく。
「祖父は苦しそうに息をしていました。私は何もできず、病室の隅で泣いていました。その時、一人の医師が祖父の手を握って言ったんです。『大丈夫ですよ。私は最後まで一緒にいます』…祖父は、その言葉を聞いて笑いました。安心したような顔でした」
救命医は静かに微笑む。
「あの時、思ったんです。命を救えなくても、人は誰かを安心させることができる。そんな医師になりたいと…」
尊は静かに耳を傾ける。その表情は変わらない。ただ、相談者の言葉を一つも取りこぼさないように受け止めていた。
「今思えば…」
救命医は、コーヒーの表面に映る揺らぎを見つめたまま、少しだけ声を落とす。
「その『大丈夫』という言葉に、私はずっと縋っていたのかもしれません。祖父に向けられた言葉でした。けれど、あの日から、私自身が何度もその言葉を探すようになりました」
尊は何も言わない。ただ、静かに続きを待つ。
「医学部へ進みました。勉強は苦しかったです。何度も挫折しかけました。それでも、祖父の笑顔だけは忘れられませんでした」
救命医はコーヒーを一口飲む。その香りに、少しだけ表情が和らぐ。
「国家試験に合格し、研修医になりました。初めて白衣を着た日…鏡の前に立った私は、何度も自分の姿を見ました。本当に医師になれたんだ、と」
少し照れくさそうに笑う。
「今思えば、あの日が人生で一番嬉しかったかもしれません」
尊も小さく笑う。
「初めてって、特別だからね」
「はい」
救命医は頷いた。
「研修医時代は失敗ばかりでした。点滴一本取るのにも時間がかかりました。先輩には何度も叱られました。患者さんにも迷惑をかけました。それでも…皆さん、待ってくださったんです。『頑張ってね。先生なら大丈夫。』そんな言葉を何度もいただきました。私は、その期待に応えたい一心で働きました」
窓の外では、風鈴が小さく鳴る。ちりん…静かな音が部屋へ溶け込んだ。
「そして、救命救急センターへ配属されました」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
「救命医は時間との勝負です。昼も夜もありません。食事も途中、眠っていても呼び出されます。救急車のサイレンが鳴るたびに、心臓が自然と動き始めるんです」
救命医は少し苦笑する。
「休みの日でも救急車を見ると、無意識に時間を確認していました。家族には職業病だと言われました」
尊は優しく笑う。
「簡単には抜けないよね」
「はい。白衣を着ていなくても…私は、いつも救命医でした」
その言葉には誇りがあった。同時に、少しだけ寂しさも混じっていた。
「命を救えた日もあります。ありがとう、と泣いてくださるご家族もいました。退院後に、お子さんが大きくなった姿を見せに来てくださることもありました。医師になって良かった、そう思える瞬間でした」
救命医は静かに目を閉じる。
「ですが……」
その一言で、部屋の空気が少し重くなる。尊は変わらず穏やかな表情で待っていた。続きを急かさない。言葉になるまで待つ。それが、この相談室だった。救命医はゆっくりと目を開く。
「救命医になって十年ほど経った頃です。私は、一人の少年と出会いました」
その声は、先ほどまでより少しだけ震えていた。
「その頃の私は、まだ気づいていませんでした。自分の中に、ずっと小さな棘のようなものが残っていたことを…見ないふりをしていたのかもしれません。あるいは、見えていても、忙しさの中に押し込めていたのかもしれません」
救命医は、ゆっくりと息を吐く。
「救える命がある。そう信じて働いてきました。けれど、救えた記憶が増えるほど、救えなかった記憶は、静かに深く残っていくものだと」
そこまで言って、言葉を切る。尊は何も言わない。ただ、静かにその沈黙を受け止めていた。
「その日から…」
救命医は、まっすぐ前を見た。
「私の時間は、少しずつ止まり始めたのだと思います」
尊は静かにコーヒーカップを置く。窓の外では、四季の庭に優しい風が吹き抜けていた。誰も言葉を挟まない。相談室には、救命医が次の記憶を語り始めるのを待つ、穏やかな静けさだけが流れていた。




