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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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白衣を脱げなかった医師 3


相談室には静かな時間が流れていた。窓の外では、桜の花びらが池へ舞い落ちる。その向こうでは紅葉が風に揺れ、竹林では鹿威しが静かに音を響かせていた。救命医は、その音を聞きながらゆっくりと息を吐く。


「その少年は、八歳でした」


静かな声だった。


「交通事故でした。家族で出掛けた帰り道、交差点で大型トラックと衝突したそうです。救急車の中で心肺停止、搬送中も心臓マッサージが続けられていました」


尊は何も言わない。救命医は、自分の記憶を一つずつ確かめるように語り続ける。


「ストレッチャーが救急処置室へ運ばれてきた時の光景を、私は今でも忘れられません。看護師の声、モニターの警告音、血の匂い、時間との勝負でした」


救命医は、自分の両手を見つめた。


「私は必死でした。心臓マッサージを続けました。薬も使いました。気管挿管もしました。できることは、全部やりました」


その声には、あの日の緊張がまだ残っているようだった。


「誰も諦めていませんでした。看護師も、救急隊員も、研修医も…全員が、その子を助けようとしていました」


少しだけ間が空く。


「でも……」


その一言だけが、重く響く。


「命は戻りませんでした」


相談室は静まり返る。遠くで風鈴が鳴った。ちりん…。


「死亡確認…その言葉を口にしたのは、私でした」


救命医は目を閉じる。


「何度経験しても、あの言葉だけは慣れません。言った瞬間…その人の時間が、本当に終わってしまう気がするんです」


尊は静かにカップを持ち上げる。一口だけコーヒーを飲む。それ以上は何も言わない。救命医は続ける。


「処置室を出ると、ご両親が待っていました。お母さんは『先生!息子は助かりますよね』…そう聞いてきました」


救命医の声が少し震える。


「私は何も…答えられませんでした。医師なのに、何も……」


長い沈黙。


「やがて、お父さんが私の表情を見て…すべてを察したんです。『……そうですか』その一言だけでした。責められませんでした。怒鳴られませんでした。だからこそ、苦しかった」


救命医は、ゆっくりと拳を握る。


「もし責められていたら、少しは楽だったのかもしれません。でも、お父さんは深く頭を下げて『最後までありがとうございました』…そう言ったんです」


その言葉を口にした瞬間、救命医の瞳が揺れた。


「ありがとう……私は、その言葉を受け取る資格なんてありませんでした。助けられなかったんです。なのに感謝されてしまった」


相談室の静寂が、彼の言葉を包み込む。


「その日からでした。夜になると、あの子の顔が浮かぶようになったのは。仕事中は忘れられるんです。次の患者さんが来ます。救わなければならない命がありますから…でも家へ帰ると、静かになるんです。その静けさの中で、あの子の顔だけが浮かぶ」


救命医は苦く笑った。


「眠れない日が増えました。眠っても、夢の中で処置室に立っていました。何度やり直しても、結果は変わらない。何度も、何度も…やり直しても救えない」


その言葉は、自分自身へ言い聞かせるようでもあった。

尊は静かに窓の外へ目を向ける。四季庭では、一枚の桜の花びらが雪の上へ舞い降りていた。


「それでも…」


救命医はゆっくりと顔を上げる。


「翌朝になると、私はまた白衣を着ました。救急車は待ってくれません。患者さんも待ってくれません。だから、立ち止まることはできませんでした」


少しだけ笑う。その笑顔は、どこか寂しかった。


「気づけば白衣を着るたびに思うようになっていました。今日は誰も死なせたくない。昨日、救えなかった分まで…今日こそ誰かを救いたい」


救命医は静かにコーヒーカップを見つめる。


「私は、その一日一日を積み重ねながら、白衣を脱げなくなっていったのです」


その言葉とともに、相談室には再び静かな沈黙が訪れた。尊は変わらず穏やかな表情で救命医を見つめている。何も問いかけない。何も慰めない。ただ、その人生を最後まで受け止めるように。救命医は小さく息を吸う。


「でも私が本当に後悔しているのは…」


尊のまなざしが、ほんのわずかに揺れる。救命医はそれに気づかないまま、コーヒーの表面に映る自分の顔を見つめた。


「…まだ終わらないんです。少年を見送ったあと、私は病棟へ戻りました。その時でした。ポケットの中で、携帯が震えていたんです。病院からではありませんでした。家族からでした」


救命医の指先が、かすかに震える。


「画面に出ていた名前を見た瞬間…私は、息が止まりました。出られなかった。出てはいけないと思った。けれど、本当は違う……怖かったんです。もし出てしまったら、私はもう一人の命を救えなくなる気がして。だから、出ませんでした」


相談室の空気が、少しずつ冷えていく。


「そして数分後、病院に救急搬送の要請が入りました」


救命医は、そこで初めて尊を見た。


「搬送されたのは…私の娘でした」


その一言が落ちた瞬間、相談室の静けさは、まるで底のない水面のように深く沈んでいった。


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