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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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白衣を脱げなかった医師 4


相談室には、重い沈黙が流れていた。窓の外では、桜が静かに舞い続けている。その向こうでは雪が降り、池の水面には紅葉が一枚、ゆっくりと浮かんでいた。時間の止まった世界だけが、何事もなかったように穏やかだった。救命医は、自分の膝の上で組んだ手を見つめたまま、小さく息を吐く。


「搬送されてきたのは…私の娘でした」


その言葉は、静かだった。それなのに、相談室の空気を大きく揺らした。尊は何も言わない。ただ、静かに救命医を見つめている。


「七歳でした。朝、笑顔で学校へ送り出したばかりでした。行ってきます、と手を振って…私も『行ってらっしゃい。』そう言って送り出しました」


救命医は目を閉じる。


「あれが、娘と交わした最後の言葉でした」


静かな沈黙。遠くで鹿威しが響く。


「通学途中…信号待ちをしていた列に、居眠り運転の車が突っ込んだそうです。複数の児童が巻き込まれました。私は……その知らせを受けた時には、もう処置室に立っていました。医師として、父親としてではなく」


ゆっくりと首を横に振る。


「搬送されてきたストレッチャーを見た瞬間、娘だと分かりました。靴が…誕生日に買ってあげた、小さな赤い運動靴。それを見た瞬間、世界の音が消えました」


救命医の声は、かすかに震えていた。


「ですが私は、処置室を出ることはできませんでした。私しかいなかったからです。担当医は私でした。誰かに代わる時間すらありませんでした」


尊は静かにコーヒーカップへ手を添える。何も語らない。何も慰めない。相談者自身の言葉だけが、この部屋では何よりも大切だった。


「私は医師として、娘へ心臓マッサージをしました。人工呼吸も、薬も、何度も、何度も、お願いだから戻ってきてくれ、と…父親として叫びたかった。でも処置室では……私は医師でした」


その瞳から、一粒の涙が落ちる。


「名前では呼べませんでした。先生、そう呼ばれ続けました。誰も父親だとは呼んでくれませんでした」


長い沈黙が続く。窓の外では風鈴が小さく揺れた。


「そして私は、自分の娘に『死亡時刻、午後三時二十八分』…そう告げました」


その瞬間だった。救命医は両手で顔を覆った。肩が、小さく震えている。


「父親なのに、最後まで抱きしめることもできなかった。泣くこともできなかった。処置室には、まだ他の患者さんがいたから。私は涙を拭いて、次の命のところへ走りました」


相談室は静まり返っていた。尊は静かに目を閉じる。救命医は涙をぬぐいながら、小さく笑った。


「おかしいですよね。娘を失ったその日に、私は別の命を救っていました。その子は助かりました。ご両親は泣いて喜んでいました。『ありがとうございました。先生のおかげです』、そう言われました」


救命医は力なく首を振る。


「私は笑えませんでした。助かった命を前にしても、心の中では…どうして……どうして娘じゃなかったんだ。そんなことを思ってしまった。医師として、一番思ってはいけないことを…私は思ってしまいました」


その言葉を口にすると、救命医は深く頭を下げた。


「最低です。私は救命医失格です。命に優先順位なんてありません。それなのに、自分の娘だけは助けたかった。助けられなかったその日から…私は毎日、自分を責め続けています。白衣を着るたびに思うんです。今日も、誰かの大切な人を救わなければならない。でも私は、一番大切な人だけは…救えませんでした」


救命医は静かに顔を上げた。その瞳には、これまで積み重ねてきた後悔が、すべて宿っていた。


「だから私は白衣を脱げませんでした。脱いでしまったら、娘に顔向けできない気がしたんです。私は救命医として生き続けることでしか…あの子に謝れなかった」


相談室には、再び静かな沈黙が訪れる。尊は、ゆっくりとカップを置いた。そして、優しい眼差しのまま救命医を見つめる。まだ何も語らない。答えを与えるのは、今ではない。救命医が、自分の人生を最後まで語り終える、その時までは。


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