龍になれなかった少年 2
相談室には、静かな時間が流れていた。湯気の立つ湯呑みから、ほのかに茶葉の香りが漂う。蒼蓮の前には、湯呑みと小さな和菓子。尊の前にも、まったく同じものが置かれている。尊は相談者だけに茶を勧めることはしない。必ず同じものを口にする。それが、この相談所で変わることのない作法だった。蒼蓮は湯呑みを両手で包み込み、小さく息をつく。
「……温かい」
その一言に、尊は穏やかに微笑む。
「ゆっくりでいいよ。急ぐ必要はない、君の時間だから」
蒼蓮は静かに頷いた。しばらく湯気を見つめたあと、ゆっくりと口を開く。
「私は…龍神の一族に生まれました」
尊は何も言わない。ただ、その言葉を受け止めるように頷く。
「私が生まれた里では、生まれた瞬間から生き方が決まっていました。皆が目指すものは、ただ一つ…龍になることです」
蒼蓮は少し目を伏せた。
「龍になることは、一族にとって最大の誉れでした。力を磨き、心を鍛え、試練を乗り越えた者だけが龍となる資格を得る。子どもの頃の私は、それが当たり前だと思っていました」
静かな声。けれど、その奥には遠い記憶が揺れている。
「父は、とても厳しい人でした。一族でも指折りの戦士であり、多くの者から敬われていました。幼い私は、その背中に憧れていました」
蒼蓮は少しだけ微笑む。
「父に褒められたくて、父に認めてもらいたくて…毎日、必死に修行をしていました」
尊は静かに湯呑みを口元へ運ぶ。何も遮らない、何も評価しない。蒼蓮自身の言葉が続くのを待つ。
「朝は誰よりも早く起きました。日の出とともに剣を振り、昼は体術を学び、夜には呼吸法を繰り返す。眠る頃には、身体中が痛くなっていました」
少しだけ苦笑する。
「あの頃は、それでも楽しかったのです。努力すれば、父はきっと笑ってくれる。そう信じていましたから」
相談室に静かな沈黙が流れる。尊は目の前の和菓子を一口だけ口に運んだ。蒼蓮も、それにつられるように和菓子を口へ運ぶ。自然な甘さが広がる。
「……懐かしい味がします」
「そう感じたなら、それが今の君に必要なお茶請けなんだろうね」
尊はそれだけを言った。蒼蓮は少し驚いたように目を丸くしたが、やがて静かに笑う。
「不思議な場所です。ここは…」
尊は笑うだけだった。蒼蓮は再び語り始める。
「私は、誰よりも強くなろうと思いました。誰よりも修行をしました。誰よりも努力しました。それでも……」
言葉が止まる。しばらく沈黙が続いた。尊は急かさない。相談者が言葉を探す時間も、この相談所では大切な時間だから。蒼蓮は静かに息を吐いた。
「私は、人を見捨てることができない子どもでした。」
その一言で、相談室の空気が少しだけ変わる。
「修行へ向かう途中、泣いている子どもがいれば声を掛けました。荷物を運べず困っている老人がいれば手伝いました。傷ついた動物を見つければ、放っておけませんでした。父は、そんな私を見て、何度もため息をついていました」
蒼蓮は苦く笑う。
「私は、それが悪いことだとは思えなかったのです。自分は困っている人がいたら助けたい…ただ、それだけでした」
その瞳は、遠い日の自分を見つめているようだった。尊は静かに頷く。促すことも、否定することもない。ただ、蒼蓮が自分自身の人生を見つめ直せるよう、穏やかな時間を守り続ける。蒼蓮は湯呑みをそっと置いた。
「ですが…その優しさは、一族にとって弱さでした」
その声は少しだけ震えていた。
「父は、何度も私に言いました」
蒼蓮はゆっくり顔を上げる。次に口にする一言が、あの日の父を呼び戻してしまうと、もう分かっていた。




