ありがとうを言えなかった兄 3
相談室には、穏やかな静寂が流れていた。ほうじ茶の湯気が、ゆっくりと二人の間を漂い、暖炉の小さな炎がその揺らぎに呼応するように静かに瞬いている。窓の向こうでは四季庭の桜が若葉の上へと花びらを落とし、その一枚一枚が光を受けて淡く溶けていった。悠斗は湯呑みを両手で包み込み、しばらくの沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「弟は高校を卒業して、医療の専門学校へ進学しました」
その声は、過去を確かめるようにゆっくりと続いていく。
「昔から、困っている人を見ると放っておけない子でした。兄としては少し心配でしたけど…やっぱり、あいつらしいなって思っていました」
懐かしさを含んだ微笑みが、ほんの一瞬だけ浮かぶ。
「忙しくなってからは、会う回数も減りました。仕事の時間も違って、休みも合わなくて。それでも、たまに実家で会うと、変わらずに笑って言うんです…『兄ちゃん、飯行こう』」
その言葉を思い出した瞬間、悠斗の表情がわずかに柔らかくなる。
「昔と何も変わらない笑顔でした」
尊は何も言わず、ただ静かに頷いた。その沈黙が、語られない記憶を急かさないための優しさであることを知っているからだ。悠斗は視線を落とし、言葉を一つずつ確かめるように続けた。
「ある日の夜遅く、母から電話がありました。弟が事故に遭ったから、病院へ来てほしいと。それだけでした」
その瞬間、相談室の空気がわずかに重くなる。
「何が起きたのか分かりませんでした。ただ車を飛ばして、信号のことも覚えていません。ずっと頭の中で『大丈夫だ、大丈夫だ』って繰り返していました」
目を伏せたまま、悠斗は続ける。
「病室に入ったとき、弟は笑っていました。包帯だらけで、身体中傷だらけなのに、私を見るなり『兄ちゃん』って笑ったんです」
暖炉の火が、かすかに揺れた。
「私は思わず『馬鹿、何やってるんだ』って怒鳴っていました。本当は抱きしめたかったのに、無事でよかったって言いたかったのに、出てきたのは全部叱る言葉でした」
苦い笑みがこぼれる。
「昔からそうなんです。心配すると、怒ってしまう。弟もそれを分かっていました。弟は少しだけ笑って、『ごめん』と呟いたあとに続けて『兄ちゃん、ありがとう』って」
その言葉に、悠斗の声がわずかに震える。
「私は何も言えませんでした。ありがとう、その一言を返せなかったんです」
返そうとした、その瞬間だった。
「先生が入ってきて、容体が急変したと告げられました。私は廊下に出されて、ただ扉を見ていることしかできませんでした」
時間の感覚が消えていく。どれほど待ったのかも分からないまま、やがて医師が静かに頭を下げた。その瞬間、すべてが終わった。
「病室に入ると、弟は眠っていました。苦しそうじゃなくて、本当にただ眠っているみたいで……」
涙が一筋、頬を伝う。
「手を握ったら、まだ少しだけ温かかったんです。だから『起きろ、帰るぞ、馬鹿』って言いました。でも、返事はありませんでした」
相談室に、深い静寂が落ちる。四季庭では風が桜を揺らし、その音だけが遠くでかすかに響いている。
「最後まで、弟は『ありがとう』って言ってくれたのに、私は一度も返せませんでした」
その言葉が、ゆっくりと空気に沈んでいく。
「兄だから、泣いちゃいけないって思っていました。母も父も支えなきゃって。だから葬儀でも泣きませんでした。でも夜になると、あいつの声が何度も聞こえるんです……『兄ちゃん、ありがとう』」
その声だけが、消えないまま残り続ける。
「今でも思うんです。最後に一度だけでも『ありがとう』って返せていたら、あいつはもっと安心して眠れたんじゃないかって」
言葉が途切れたあと、相談室には長い沈黙が訪れた。尊は何も言わない。ただ、峰倉悠斗という一人の人生を、最後まで壊さぬように受け止めていた。
窓の外では、桜の花びらが風に舞い上がる。その一枚一枚が、言葉になれなかった「ありがとう」を抱いたまま、空へとほどけていく。
届かなかった想いだけが、静かに風の中へ溶けていった。




