ありがとうを言えなかった兄 2
相談室には、穏やかな静けさが流れていた。丸い木の卓には湯気の立つほうじ茶と小さな和菓子が並び、窓の外では四季庭の桜と若葉が同じ風に揺れている。尊は湯呑みを両手で包みながら、峰倉悠斗を静かに見つめていた。その視線は変わらず柔らかい。けれど、瞬きの間にほんのわずかだけ、焦点が揺れる。
言葉の奥に触れかけた何かを、無意識に受け止めてしまったような微かな間があった。すぐに、いつもの穏やかさへ戻る。急かさない。問い詰めない。言葉は、語る準備ができたときにだけ意味を持つことを知っているからだ。悠斗は小さく息を吐いた。
「…私は、二人兄弟の兄でした」
その一言で、記憶が静かにほどけていく。
「弟は六つ下で、小さくて、泣き虫で、いつも私の後ろをついて歩く子でした」
懐かしさに、わずかに口元が緩む。
「両親が共働きだったので、保育園の迎えはほとんど私の役目でした。ランドセルを背負ったまま、弟の手を引いて帰る。それが毎日の当たり前でした」
尊は静かに頷く。その頷きは一度だけ、ほんの少し遅れていた。まるで、言葉の中にある「当たり前」という響きを、どこか遠くで確かめているようだった。
「弟さん、お兄ちゃんが大好きだったんだね」
「はい」
悠斗は少し照れたように笑う。
「どこへ行くにも『お兄ちゃん、お兄ちゃん』って、ずっと後ろを追いかけてきました」
相談室に、柔らかな時間が流れる。
「休日は公園に行って、キャッチボールや虫取りをして、一緒にアイスを食べて…特別なことなんて何もないんです。でも、あの時間が一番幸せでした」
湯気がゆっくりと揺れる。尊は湯呑みに視線を落としたまま、小さく息を吸う。その呼吸は整っているようでいて、ほんの一拍だけ深く沈んだ。
「弟は優しい子でした。困っている子がいれば声をかけて、転んだ子がいれば一緒に泣いてしまうような」
小さく笑う。
「だから私は、よく言っていました。『もっと強くなれ』って」
言葉が少しだけ重くなる。
「兄として、守りたかったんです。だから厳しくしてしまった」
尊は何も言わない。ただ、その沈黙の中で視線が一度だけ悠斗の手元へ落ち、すぐに戻る。その動きは極めて小さいのに、なぜか部屋の空気だけがわずかに変わった。
「勉強も教えました。テスト前は夜まで付き合って、運動も一緒にやって…転ぶたびに『立て、まだ終わってない』って手を引いて」
視線が落ちる。
「本当は、抱き起こしてやればよかった。でも、強くなってほしかったんです」
暖炉の火が小さく揺れた。尊のまぶたが一度だけ、ほんのわずかに下がる。その瞬間、呼吸が浅くなるような気配があったが、すぐに元の静けさへ戻る。
「弟は一度も嫌な顔をしませんでした。『うん、頑張る』って、それだけ言って…何度転んでも立ち上がる」
静かな笑み。
「私より、ずっと強い子だったのかもしれません」
四季庭の風が、若葉を揺らす。
「高校に入る頃には、私は部活で忙しくなって、帰りも遅くなっていきました。弟と話す時間は減っていきましたが、それでも毎晩……」
一瞬、声が柔らかくなる。
「『お兄ちゃん、おかえり』って、玄関まで迎えに来るんです。眠そうな顔で、目をこすりながら」
小さく息を吐く。
「私は『寝てろよ』って言うだけでした。でも次の日も、また待っている。本当に、可愛い弟でした」
尊は穏やかに微笑む。その微笑みの奥で、ほんの一瞬だけ視線が遠くへ逸れる。何かを思い出しかけて、しかし掴めないまま戻ってくるような揺れだった。
「優しい家族だったんだね」
「はい」
悠斗は静かに頷く。
「弟がいることが、ずっと当たり前でした。大人になっても、結婚しても、ずっと続くものだと……」
沈黙が落ちる。
「社会人になって仕事が忙しくなり、弟も高校生になって、会話は減りました。でも会えば昔と同じで、くだらない話をして笑って、『またね』って別れる。それがずっと続くと思っていました」
暖炉の火が、わずかに音を立てる。
「弟は医療の仕事を目指していました。『人を助けたい』って言って、勉強を頑張っていて」
声が少しだけ柔らかくなる。
「私は『お前ならなれる』って言いました」
その瞬間、悠斗の指先が止まる。沈黙が落ちる。一拍、もう一拍。尊の喉が、ごく小さく動く。息を吸う音が、ほんのわずかに深くなる。
「弟は嬉しそうに笑って『ありがとう』って…」
言葉が途切れる。その瞬間、尊の視線がほんの一瞬だけ強く揺れた。けれどそれは感情として表に出る前に、静かに奥へ沈められる。
「その時は、ただの会話だと思っていました。でも今思うと…その日、弟は少しだけ、私の顔を長く見ていました」
悠斗は気づかないまま続ける。
「何か言いかけていたような顔で、笑っていて」
言葉が途切れる。相談室の空気が、静かに沈む。暖炉が小さく鳴った。
「それが…」
一度、喉が詰まる。
「それが、最後のありがとうだったなんて…」
声が落ちる。
「その時の私は、思ってもいませんでした」
沈黙。長くも短くもない、ただ重さだけを持った時間。尊は湯呑みを見つめたまま、何も言わない。その指先が、ほんのわずかに湯呑みの縁を押さえ直す。それは気づかれないほど小さな動きだったが、確かに「何か」を支え直す仕草だった。悠斗は気づかない。ただ、胸の奥に沈んだ記憶だけが、ゆっくりと形を持ちはじめていた。
「……あいつ」
小さく呟く。
「本当は、何を言おうとしてたんだろうな」
その問いに、答えはない。それでも相談室は、ただ静かにその言葉を受け止めていた。




