ありがとうを言えなかった兄 1
四季庭では、春の桜が雪へ花びらを落とし、夏の青葉が風に揺れ、秋の紅葉が池を染め、冬の雪がそのすべてを静かに包んでいた。四季が同じ場所で重なり合う、ここだけの庭。
ーコンー
ーちりんー
鹿威しと風鈴の音を聞きながら、尊は縁側に寝転んで空を見上げていた。
「今日もいい天気だね」
誰へともなく呟く。この場所では、季節も時間も曖昧に溶け合っている。隣では松平が静かに湯を注いでいた。
「尊様、お茶が入りました」
「ありがとう、松ちゃん」
尊は起き上がり、湯呑みを受け取る。一口飲んで息をつく。
「おいしい。今日のは優しい味だね」
松平も同じ茶を口にする。それは相談者と同じものを分け合う、この場所の決まりだった。しばらく二人は庭を眺めていた。風が吹き、桜が舞う。尊はふと呟く。
「最近、懐かしいって思うことが増えたんだ」
松平が静かに問う。
「何がでございますか」
「分からないんだ」
尊は少し困ったように笑う。
「懐かしいのに、何が懐かしいのか思い出せない」
松平は穏やかに答える。
「思い出は、必要な時に訪れるものでございます」
「そういうもの?」
「はい」
尊は少し安心したように笑う。
「松ちゃんって、そういうところ安心するよね」
「ありがとうございます」
穏やかな時間が流れる。その時…
ーカランー
鈴の音が響いた。尊は自然に微笑む。
「来たね」
松平は静かに立ち上がる。
「お迎えに参ります」
「お願い」
「かしこまりました」
目を覚ました男は、夕暮れの実家にいた。畳の匂い。木の柱。縁側。庭の柿の木。風鈴が揺れている。
「…実家か」
三十代前半の男はゆっくり起き上がる。懐かしい景色だった。幼い頃、弟と遊んだ庭。母の声。
『悠斗、帰っておいで』
その記憶が自然に蘇る。縁側に立ち、庭を見る。誰もいないのに、弟が走ってきそうだった。
「…あいつ、転びながら走るんだよな」
その時、扉が叩かれる。
ーコン、コンー
「お目覚めでしょうか」
扉を開けたのは、黒髪のメイド服の少女だった。
「私は松平と申します。異世界相談所へようこそ」
男は戸惑う。
「異世界……?」
「お迎えに参りました」
不思議と、恐怖はなかった。ただ懐かしさだけがあった。
「こちらへ」
松平に導かれ、男は歩き出す。やがて庭が広がる。四季が同時に存在する不思議な場所。男は立ち止まる。
「……綺麗だな」
松平は静かに答える。
「ここは四季庭でございます。時間のない場所です」
男は小さく笑う。
「弟が見たら喜ぶだろうな」
その言葉に、胸が少しだけ痛む。松平は何も言わない。ただ歩き出す。しばらく歩くと相談室に着き、松平は慣れた手つきでノックした。
ーコン、コン、コンー
「尊様、お連れいたしました。…こちらへ」
「失礼いたします。…峰倉悠斗です」
「挨拶をありがとう。僕は、尊」
男は小さく名乗った。その声は夕暮れに溶けていった。




