夢を捨てた音楽家 6
輪廻の扉が、静かに閉じた。白い光は音もなく消え、相談室には穏やかな静寂だけが戻ってくる。薬草茶の香りはまだ部屋へ残り、暖炉では小さな炎が静かに揺れていた。尊は閉じられた扉を見つめ、小さく微笑む。
「行ったね」
松平はクラシカルなメイド服の裾を整え、小さく一礼した。
「はい、尊様。夢を取り戻されました」
尊は嬉しそうに頷く。
「うん。今度は誰かを喜ばせるために、音を届ける人生になるね」
松平も穏やかに微笑む。
「きっと多くの方が、その音に救われることでしょう」
相談室には静かな時間が流れる。四季庭では桜が風に舞い、その向こうでは雪が音もなく積もっている。尊は立ち上がる。
「松ちゃん、今日も備忘録を書こう」
「かしこまりました」
二人は相談室を後にし、執務室へ向かった。執務室、相談所で唯一、決して姿を変えない部屋。畳、障子、文机、硯、積み重ねられた筆、壁一面に並ぶ本棚。縁側の向こうには、いつもの四季庭が広がっている。尊は文机へ静かに腰を下ろす。一冊の白い本が、音もなく机の上へ現れた。最後の一頁だけが、静かに開いている。尊は筆へ墨を含ませた。
ーさらり、さらりー
紙の上を筆が滑る。急がない、飾らない。ただ、その人生へ感謝を込めながら、一文字ずつ綴っていく。やがて筆が止まる。尊は静かに読み返した。
『夢は、叶わなかったから消えるのではない。誰かを幸せにしたいという願いへ変わった時、その夢は新しい音となって、もう一度歩き始める』
尊は小さく微笑む。
「お疲れさまでした」
本を閉じる。白かった背表紙へ、淡い金色の文字が浮かび上がる。
『朝霧 奏』
尊はその本を抱え、本棚の前へ歩いた。静かに棚へ戻す。その瞬間、本は柔らかな金色の光を放ち、本棚全体へ静かに広がっていく。まるで、一つの人生が「ありがとう」と微笑んだようだった。また一冊、人生が帰る場所を得た。尊は嬉しそうに笑う。
「よかった。ちゃんと帰れた」
松平も静かに頭を下げる。
「はい。今日も、一冊の人生が穏やかに綴られました」
しばらく、二人は本棚を眺めていた。その時だった…どこからともなく、細く透き通るような音色が流れた。
ー♪ー
ほんの一音、ヴァイオリンだった。誰も弾いていない。相談所にも楽器はない。それでも春風へ溶けるように、その音だけが確かに聞こえた。尊は顔を上げる。
「……今、聞こえた?」
松平は静かに耳を澄ませる。そして、小さく首を横へ振った。
「私には何も」
尊は少しだけ首を傾げる。
「変だな。すごく懐かしい音だった」
もう一度耳を澄ませる。けれど、もう聞こえない。四季庭では風だけが若葉を揺らしている。
「誰が弾いてたんだろう」
誰へともなく呟く。その時、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。音色と一緒に、何かを思い出しかけた気がした。誰かが笑っていた、柔らかな光の中で。音楽が流れていた、誰かが優しく笑って。
「……」
そこまでだった。景色は霧のように消える。思い出せない。けれど…
「懐かしかった」
その気持ちだけは残っていた。尊は困ったように笑う。
「最近こういうこと、増えたなぁ」
松平は何も言わない。ただ、尊の横顔を静かに見つめていた。その瞳だけが、ほんの少しだけ揺れる。
(尊様。少しずつ思い出しておられます)
誰にも届かない、小さな祈り。四季庭では風が吹く。桜の花びらが一枚、高く舞い上がる。その花びらは、誰にも聞こえない旋律へ寄り添うように、静かに空へ溶けていった。尊はその景色を見つめながら、小さく微笑む。
「また、いつか聞けるといいな」
その願いは、まだ名前を持たない記憶へ向けられた、小さな一歩だった。




