夢を捨てた音楽家 5
相談室には、穏やかな静寂が流れていた。薬草茶の湯気が静かに立ちのぼり、暖炉では小さな炎がゆっくりと揺れている。窓の向こうでは、四季庭の桜が雪の上へ舞い降り、若葉を渡る風がやさしく枝を揺らしていた。奏は両手で湯呑みを包み込んだまま、しばらく何も言わなかった。その瞳には、もう先ほどまでの深い絶望はない。けれど長い年月閉じ込めてきた夢を前にして、まだ少しだけ戸惑っているようだった。やがて、小さく笑う。
「不思議ですね。私は夢を失ったと思っていました。でも失ってなんかいなかった」
尊は穏やかに頷く。
「うん。夢ってなくなるものじゃないから」
奏は静かに目を閉じる。舞台の照明、客席の静けさ、最初の一音を奏でる瞬間…そのすべてが、胸の奥では今も鮮やかだった。
「私は怖かったんです。ヴァイオリンを見ることが、夢を思い出すことが、もう弾けない現実を見ることが。だからケースごと心へしまい込んでしまいました」
長い沈黙。相談室には暖炉の音だけが響く。
「でも夢は閉じ込めても、消えないんですね」
その声は、とても穏やかだった。尊は小さく微笑む。
「きっと夢の方が、奏さんを待っていたんだろうね」
奏は少しだけ驚き、それから笑った。
「そうかもしれません。私は夢から逃げていました。でも夢は逃げませんでした」
相談室へ、穏やかな静けさが戻る。やがて尊は姿勢を正した。その笑顔は変わらない。
「奏さん。ここへ来た人には三つの道があります」
奏は静かに頷く。尊は一本、指を立てた。
「一つ、この異世界相談所で心が落ち着くまで過ごすこと。ここには時間がありません。だから急ぐ必要もありません。」
少しだけ間を置く。二本目の指を立てる。
「二つ、輪廻の輪へ還り新しい命として歩き出すこと。」
そして、三本目の指を静かに立てた。
「最後の三つめ、少しだけ時を遡り人生をやり直すこと。ただし未来がどう変わるかは誰にも分かりません。変わってしまった未来について、僕は責任を取ることはできない」
相談室は静まり返る。奏は目を閉じた。もし、あの日へ戻れたら、手を壊す前へ、世界を目指していた頃へ。もう一度、演奏できるかもしれない。けれどその願いよりも、胸の中へ浮かんだものがあった。父、母、先生、友人、応援してくれた人たち。そして誰よりも、自分自身。ゆっくりと目を開く。その瞳には、もう迷いはなかった。
「私は、やり直したいです」
尊は静かに頷く。
「理由を聞いてもいいかな」
奏は穏やかに笑った。
「昔の私なら世界一になりたい、そう答えていました」
少しだけ首を横へ振る。
「でも今は違います。賞なんてなくてもいい。拍手も、名声もいりません」
その声は、どこまでも静かだった。
「ただもう一度だけ、父と母の前で、先生の前で、笑って演奏したい。音楽が好きだって、ちゃんと笑って言いたい」
その言葉に、尊の表情が柔らかくなる。
「その選択、受け取った」
そう言って、尊は静かに立ち上がる。相談室には深い静寂が満ちた。両手を合わせる。
ーパンッー
一度だけ澄んだ柏手の音が響く。その音は、暖炉の火も、四季庭の風も、優しく包み込むようだった。何もなかった空間に一枚の古い木の扉が静かに現れる。木目には長い年月が刻まれ、その隙間から柔らかな白い光が漏れていた。その先に何があるのか、尊も知らない。知っているのは…そこが、新しい人生へ続く扉だということだけ。奏は静かに立ち上がる。まず、尊へ深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。人生を聞かせてくれて、ありがとう」
奏は少しだけ笑う。その笑顔は相談室へ来た時より、ずっと自然だった。
「今日、初めて夢を見ても苦しくありませんでした」
尊は嬉しそうに頷く。
「夢は、人を苦しめるためじゃないからね」
奏は目を閉じる。胸の奥で小さなヴァイオリンが、静かに鳴った気がした。
「今度は、ちゃんと笑って弾いてきます。いってきます」
尊も微笑む。
「いってらっしゃい」
その一言は送り出す言葉であり、夢を信じ続けた人への祝福でもあった。奏は四季庭を一度だけ見つめる。桜、若葉、紅葉、雪。すべての季節が穏やかに寄り添っている。その景色を胸へ刻む。そして光の中へ、一歩踏み出した。その背中は、もう夢から逃げていなかった。
扉は静かに閉じる。白い光も、ゆっくりと消えていく。相談室には再び静かな時間だけが戻る。暖炉の火は変わらず揺れ、薬草茶の香りだけが、穏やかに部屋を満たしていた。尊は閉じられた扉を見つめ、小さく微笑む。
「きっと今度は、誰かを幸せにする音が鳴るね」
その言葉とともに、四季庭を渡る風が桜の花びらを空高く舞い上げた。その花びらは、未来へ向かう旋律のように、静かに光の中へ溶けていった。




