夢を捨てた音楽家 4
相談室には、穏やかな静けさが流れていた。薬草茶の湯気が、白く細い糸のように立ちのぼり、二人のあいだをゆっくりと漂っていく。暖炉では小さな炎が静かに揺れ、その橙色の光が畳の上へやわらかく滲んでいた。窓の向こうでは、四季庭の桜が風にほどけ、花びらが雪の上へひとひらずつ落ちては消えていく。春と冬が同じ庭に息づくこの場所は、いつもどこか現実離れしている。けれど今は、その不思議ささえも、奏の胸の奥に沈んだ痛みをそっと包み込んでいるようだった。
奏は両手で湯呑みを包んだまま、しばらく動かなかった。ヴァイオリンを抱えていた頃と同じように、細く長い指先だけが、かすかに震えている。弦を押さえるために鍛えられたその指は、今はもう音を生むためではなく、失ったものの重さを確かめるように、静かに湯呑みの熱を受け止めていた。やがて、奏は小さく息を吐いた。
「夢を諦めたわけじゃありません。諦められませんでした。だから誰にも見えない場所へしまったんです」
その声は静かだった。けれど、静かなぶんだけ、長いあいだ胸の奥で押し殺されてきたものの重みが伝わってくる。尊は何も急がせない。相談所の主として、いつもそうしているように、奏が自分の言葉で語り終えるのを、ただ穏やかに待っていた。沈黙を埋めることも、慰めることもせず、ただそこにいる。その在り方が、今の奏にはありがたかった。奏は目を伏せたまま、続けた。
「ヴァイオリンケースを閉じた日、私は一緒に自分も閉じてしまいました。友達から演奏会へ誘われても、後輩から相談されても、テレビから音楽が流れるだけでチャンネルを変えました」
少しだけ、苦く笑う。
「好きだから聴けないんです。好きだから見られない。好きだから近づけない」
その言葉は、まるで傷口に触れないように、そっと置かれたガラス細工のようだった。壊れやすく、けれど確かに本音だった。
「家族は『また弾ける日が来るよ』そう言ってくれました。先生も『急がなくていい。音楽は逃げない』そう励ましてくださいました」
奏はゆっくり首を横へ振る。
「でも私だけが、音楽から逃げていました」
長い沈黙。暖炉の火だけが、小さく音を立てる。ぱち、と薪がはぜるたび、相談室の空気がわずかに揺れた。
「ある日、押し入れを整理していたら…ヴァイオリンケースが出てきました。埃だらけでした。私は蓋を開けられませんでした。触っただけで手が震えて、息が苦しくなって…結局そのまま、また押し入れへ戻しました」
その時の光景が、奏の瞳の奥に静かに浮かんでいるようだった。薄暗い押し入れの中、長く閉ざされたケース。触れれば壊れてしまいそうなほど、沈黙を抱えたまま眠っていた楽器。そこには、音を失ったのではなく、音を閉じ込めたままの時間があった。
相談室には静かな時間が流れる。尊は薬草茶を一口飲んだ。湯気の向こうで、その表情はいつも通り穏やかだ。けれど、その瞳は奏の言葉のひとつひとつを、逃さぬように受け止めている。それから、やさしく問い掛けた。
「奏さん、夢って終わったのかな」
奏は少し驚いたように顔を上げる。
「……え?」
尊は穏やかに微笑んだ。
「ヴァイオリンを弾けなくなった、それは事実。でも夢そのものは、終わったのかな」
奏は答えられなかった。尊は続ける。
「終わった夢って、誰の中にも残らないのかな」
その問いは、責めるためのものではなかった。むしろ、奏自身がずっと見ないふりをしてきた場所へ、そっと灯りを差し込むような問いだった。相談室が静まり返る。奏は窓の向こうを見た。桜が舞う、若葉が揺れる、雪が降る。ひとつの窓の外に、季節が重なっている。その景色は、終わったはずのものが、形を変えながらなお生き続けているようにも見えた。
「……残っています」
小さな声だった。
「今でも音楽を聴くと、胸が苦しくなります。舞台を見ると立ちたくなります。夢を見ます。夢の中では、今でも弾いています」
その瞳から、一筋の涙が零れた。
「終わっていません。終われないんです」
尊は静かに頷く。
「うん。だから夢は、まだそこにある」
その言葉に、奏はようやく息をついたように、涙を拭った。その涙は、後悔だけではなかった。失ったものへの痛みと、それでもなお消えなかった想いが、ひとつになってこぼれ落ちたものだった。
「私は夢を失った人じゃない。夢を閉じ込めていただけ…」
自分の口から出たその言葉に、奏は少し驚いたように目を見開き、それから、ほんのわずかに笑った。
「そうですね。まだ私の中に、ちゃんとありました」
相談室には、再び穏やかな静けさが戻る。暖炉の火がやさしく揺れ、薬草茶の香りが、少しだけ甘く感じられた。その時だった。尊は窓の向こうを見つめながら、小さく呟く。
「不思議だな」
奏は顔を上げる。
「え?」
尊は少し困ったように笑った。
「今、奏さんの話を聞いていたら、僕も何か大切な約束を忘れている気がした」
その声は、とても穏やかだった。けれど、その穏やかさの奥に、言葉にできない空白がひそんでいる。
「思い出せないんだ。誰との約束だったかな。何を約束したんだろう。そんな気持ちだけが残ってる」
相談室の空気が、ほんの少しだけ変わる。その言葉を聞いた松平は、薬草茶を注いでいた手を、ほんの一瞬だけ止めた。松平は、この異世界相談所で尊を支える案内役であり、相談者の迎え入れや茶の用意、部屋の整えなどを担っている。尊のそばで長く働いているため、彼の些細な変化にもすぐ気付くが、必要以上に口を挟むことはない。その横顔は変わらない。クラシカルなメイド服の裾も、いつもどおり整っている。けれど、その瞳だけが、誰にも分からないほど静かに揺れた。尊は気付かない。窓の外を見つめたまま、小さく笑っている。
「最近こういうこと、増えたなぁ。誰かを思い出しそうで、思い出せない」
その言葉は、ただの独り言のようでいて、どこか遠い場所から返ってきた残響のようでもあった。奏はその横顔を見つめながら、胸の奥に小さな痛みを覚える。尊が何かを失っている。そのことだけは、はっきりと伝わってきた。松平は胸の前で、そっと両手を重ねる。
(尊様、もう少しでございます)
声にはならない。ただ、心の中だけで静かに呟く。奏は尊を見つめる。
「きっと思い出せます。夢も、約束も、大切なものって心は忘れませんから」
尊は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。そうだと、いいな」
その笑みは、どこか少年のように無防備で、だからこそ余計に、胸の奥の空白を際立たせる。奏はその笑顔を見て、なぜだか少しだけ切なくなった。相談室には、再び穏やかな静けさが流れる。薬草茶の香り、暖炉の温もり、四季庭を渡る風。
そして誰にも聞こえないほど小さく、どこか遠くから、ヴァイオリンの音色が一瞬だけ風へ溶けたような気がした。それははっきりした旋律ではない。けれど、確かにそこにあった。弦が震える前の息を吸うような気配。誰かが遠い記憶の扉をそっと叩いたような、かすかな響き。尊はふと、目を細めた。
「……今、何か聞こえた気がした」
奏も息を止める。けれど次の瞬間にはもう、音は消えていた。残っているのは、風の揺れと、胸の奥にだけ触れた、名もない余韻。松平は何も言わない。ただ静かに、湯気の立つ茶器を整える。誰も、そのことには触れなかった。けれど相談室には、たしかにひとつの音が残っていた。
それは、奏が閉じ込めた夢の音であり、尊がまだ思い出せない約束の音でもあるように思えた。そしてその音は、消えたのではなく、ただ、まだ名前を与えられていないだけなのだと、静かに告げているようだった。




