夢を捨てた音楽家 3
相談室には、穏やかな静寂が流れていた。薬草茶の湯気が、ゆっくりと立ちのぼる。暖炉では小さな炎が静かに揺れ、窓の向こうでは四季庭の桜が、雪の上へはらはらと舞い落ちていた。春と冬が同じ景色の中で寄り添っている。その不思議な光景は、いつ見ても心を落ち着かせる。
奏は湯呑みを両手で包み込み、小さく息を吐いた。表情は落ち着いて見える。けれど、指先に触れられるほど近くで見れば、その静けさが、かろうじて保たれているものだと分かる。胸の奥に沈めた痛みが、今にも水面へ浮かび上がりそうだった。
「私はずっと、ヴァイオリンと一緒に生きてきました。だから音楽がなくなる人生なんて、考えたこともありませんでした」
尊は何も言わない。ただ静かに耳を傾けている。その沈黙が、奏に続きを語らせる。
「二十四歳の冬でした。海外公演を終えて帰国した頃です」
奏は自分の左手を見つめた。細く長い指。何万回も弦を押さえ、何万回も音を生み出してきた指先だ。その指を見ているだけで、あの日の感覚が蘇ってくる。
「ある日、左手の指先に…ほんの少しだけ、違和感がありました。痛い、というほどではなくて……でも、いつもと違う。弦を押さえた時の感触が、わずかに鈍い。最初は疲れているだけだと思いました。演奏が続いていましたから、休めば治る…そう思っていました」
暖炉の火だけが、静かに揺れる。
「でも違いました。翌日も、その次の日も、指が思うように動かない。音が少しずつずれていく」
奏の声が、そこでわずかに揺れた。
「私には、ほんの少しの狂いでも…すぐ分かるんです。長く弾いてきましたから、だからこそ分かってしまった。もう、前と同じではないって…」
その瞬間の恐怖を思い出したのか、奏は唇を結ぶ。相談室には、しんとした沈黙が落ちた。
「病院へ行きました。何件も、何件も、検査を受けました。結果を待つ時間が、いちばん怖かったです。何も言われないままの数日が…まるで、舞台の袖で照明が落ちるのを待っているみたいで、息が詰まりました」
奏は目を閉じる。その日の診察室が、鮮明によみがえる。白い壁。静かな時計の音。机の上に置かれたカルテ。窓から差し込む冬の光。医師は長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「『朝霧さん。もう以前のような演奏は難しいでしょう。』」
その一言だけだった。たったそれだけだったのに、奏の世界は、その場で音を失った。
「頭の中が真っ白になりました。聞こえているのに、何も理解できない。先生の口が動いているのは見えるのに、言葉だけが遠くの水底へ沈んでいくみたいで。何度も聞き返したかった。でも声が出ませんでした」
奏は静かに笑う。笑っているのに、目の奥はひどく濡れていた。
「病院を出てヴァイオリンケースを持ったまま、ずっと歩いていました。手の中にあるはずの重さだけが、やけに現実的で…それ以外は全部、夢みたいでした。気付いたら夕方になっていました」
窓の外では桜が風に揺れる。
「家へ帰ると母が『おかえり』そう笑いました。私は『ただいま』それだけ言いました。言えませんでした。もう弾けない。もう、あの音は出せないでその一言だけが、どうしても喉の奥から出てこなかったんです」
相談室には、暖炉の音だけが響く。
「翌日も普通に練習室へ行きました。楽器を持って、弓を構えて弾こうとしました。指を置いた瞬間、怖かった。昨日まで当たり前だった場所が、知らない場所みたいに感じたんです。でも弾かなきゃと思いました。弾けるはずだと、そう信じたかった。けれど指が思うように動かない。頭の中では完璧に聞こえている音が、現実では出てくれない」
奏は唇を噛む。その歯が、かすかに震えていた。
「悔しかった、苦しかった。何度弾いても、昨日まで弾けていた曲が今日は弾けない。弓を動かすたびに、自分の中の何かが少しずつ削れていく気がしました音が外れるたび、胸の奥が冷たくなって…それでも止められなかった」
長い沈黙が落ちる。
「先生が来ました…『休みなさい』そう言われました。でも休めませんでした。休んだら全部終わる気がしたから。休んだ瞬間、私は本当にヴァイオリンを失う気がしたんです。だから毎日、毎日、弾き続けました。指から血が出ても、震えても、止めませんでした。痛みよりも怖さの方が大きかったんです。弾けなくなる自分を、認める方がずっと怖かった」
暖炉の炎が、小さく揺れる。
「ある日、弓を落としました」
その一言で、奏の声が止まる。相談室の空気が、ほんの少しだけ張りつめた。
「手が言うことを聞かなかったんです。弦を押さえようとして力を入れた瞬間、指先がふっと抜けて…弓が床へ落ちました」
乾いた音がした。その音だけが、今も耳に残っているようだった。
「拾おうとして手を伸ばしたのに、指が動かなかった。ほんの数センチ先にあるのに届かない。ただそれだけのことが、どうしてもできなかった」
奏はそこで、息を詰める。
「その瞬間……私は全部終わったんだ…そう思いました」
相談室は静まり返る。奏は静かに涙を拭った。
「夢を諦めたんじゃありません。諦められませんでした。だから閉じ込めたんです。ヴァイオリンケースへ、楽譜も、衣装も、コンクールの写真も…全部しまいました。そして二度と開けませんでした」
その声は穏やかだった。けれど、その穏やかさが、かえって胸を締めつける。
「家族には『少し休みたい』そう言いました。友達には『新しいことを始める』そう笑いました。誰にも本当のことは言いませんでした。夢を失ったなんて口にしたら、本当に終わってしまう気がしたから。言葉にした瞬間、自分の中で最後の灯りまで消えてしまう気がしたんです」
相談室には、静かな時間が流れる。尊は何も言わない。ただ、奏の人生を最後まで受け止めるように、静かに見つめていた。奏は湯呑みをそっと机へ置く。
「私は、夢を諦めた人じゃありません。夢を誰にも見えない場所へ…しまい込んだだけなんです」
その一言が、相談室へ静かに落ちた。暖炉の火は変わらず揺れている。四季庭では、春と冬が寄り添うように静かに息づいていた。そして尊は、その続きを急かすことなく、穏やかな微笑みのまま、奏が胸の奥へ閉じ込めた「夢」の続きを待っていた。




