夢を捨てた音楽家 2
相談室には、穏やかな時間が流れていた。丸い木の机には、湯気の立つ薬草茶が二つ。窓の向こうでは四季庭の桜が風に舞い、雪が静かに積もっている。暖炉の火は小さく揺れ、その温もりが部屋全体を包み込んでいた。尊は何も急がせない。人生には、自分の歩幅でしか語れない記憶があることを知っているからだ。男性は薬草茶を両手で包み込み、小さく息をつく。
「私は……」
少しだけ照れくさそうに笑う。
「朝霧奏と申します。ヴァイオリンを弾いていました」
尊は穏やかに頷いた。
「奏さん、ゆっくりで大丈夫。聞かせて。」
その一言に背中を押されるように、奏は静かに語り始めた。
「私が初めてヴァイオリンを触ったのは、四歳の頃でした。父が音楽教師で、母はピアノを教えていました。家には、いつも音楽が流れていました。朝はピアノ、昼は歌、夜はヴァイオリン。それが私にとって当たり前の毎日でした」
懐かしそうに目を細める。
「最初は遊びだったんです。小さな身体で大きな楽器を抱えて、ぎこちなく音を出すだけ。でも、それが楽しくて仕方ありませんでした」
相談室には静かな時間が流れる。
「父は厳しい人でした。姿勢、弓の持ち方、音程。全部、何度も直されました。少しでも音が濁ると、最初からやり直しでした。泣いた日もあります。もう嫌だと思った日もありました」
小さく笑う。
「でも翌朝になると、また弾きたくなるんです。不思議でした」
尊も自然と微笑んでいた。
「好きだったんだね」
「はい、好きでした。誰よりも音楽が」
その声には迷いがなかった。けれどその奥には、まだ言葉にならないほど小さな緊張が、静かに潜んでいた。
「八歳で、初めてコンクールへ出ました。優勝しました。十歳で全国大会、十二歳で海外。周りは『天才だ』そう言ってくださいました」
奏は少しだけ困ったように笑う。
「でも私は天才だなんて思ったことはありません。ただ毎日弾いていただけなんです。朝起きて学校へ行く前に二時間、帰ってから四時間、眠る前に一時間。それが、私の日常でした」
薬草茶の湯気が静かに揺れる。
「練習は苦しくありませんでした。音が昨日より少しだけ綺麗になる。その瞬間が嬉しかった。一曲弾けるようになるたび、世界が少し広くなる気がしたんです。ただ少しでも納得できない音があると、何度でも弾き直してしまって、気づけば指先が熱を持っていることもありました。それでも、もう一回、もう一回だけ、そう思うと止められなくて」
奏はそこで、ほんの少しだけ視線を落とした。
「今思えば少し頑張りすぎていたのかもしれません」
その言葉は、笑い話のように軽く置かれた。けれど、尊は何も言わず、ただ静かに受け止める。
「高校へ入る頃には世界で演奏したい…そう思うようになりました。大きなホールで、たくさんのお客様の前で、音楽を届けたい。それが私の夢でした」
窓の外では、桜が雪の上へ舞い落ちる。
「留学も決まりました。世界的な先生にも出会えました。毎日、幸せでした。厳しい練習も、失敗も。全部が夢へ近づいている気がしたから。ただ周りが思っていたより、私はずっと自分に厳しかったみたいです。一度でもうまくいかないと、その日の音を全部なかったことにしたくなることがあって。誰かに褒められても、まだ足りない気がして。もっと、もっと…そう思ってしまうんです」
相談室には穏やかな静寂が流れる。尊は静かに耳を傾ける。
「父は『焦るな。音楽は競争じゃない』そう言っていました。母は『あなたの音が好き』と、いつも笑ってくれました」
奏は静かに笑う。
「私は恵まれていました。応援してくれる家族がいて、仲間がいて、先生がいて、夢がありました」
少しだけ目を閉じる。
「舞台へ立つ瞬間が、何より好きでした。照明が消えて、会場が静かになって、最初の一音を出す。あの一瞬だけは、世界中で私一人になるんです。でも不思議と孤独じゃありませんでした。音楽が隣にいてくれたから」
尊は優しく微笑む。
「素敵だね」
奏も静かに頷く。
「はい。私はずっと、この人生が続くと思っていました」
長い沈黙。薬草茶の湯気だけが、静かに立ちのぼる。奏は自分の両手を見る。細く長い指。何万回も弦へ触れてきた指先。その指を、そっと握る。
「でも…」
その一言で、相談室の空気が少しだけ変わった。
「夢って終わる時は、本当にあっという間なんですね」
その声は静かだった。けれどその奥には、まだ誰にも語っていない痛みが、静かに眠っていた。尊は何も言わない。急がない。ただ、奏が次の記憶を、自分の言葉で語り始める時を、穏やかに待ち続けていた。けれど、その沈黙は決して空白ではなかった。弦に指を添える直前の、息を呑むほど静かな一瞬に似ている。次の音が生まれるのか、それとも途切れてしまうのか…その境目で、奏の胸の奥に眠る「あの日」が、今まさに扉を開こうとしていた。




