夢を捨てた音楽家 1
四季が一つの庭で静かに息づいていた。桜の花びらが風に乗って舞い、その足元には雪が淡く積もっている。青々とした竹林を風が抜け、紅葉が池へと落ちる。鹿威しが澄んだ音を響かせ、風鈴が小さく揺れた。
ーちりんー
その音は、庭に満ちる四季の響きの中で、ひときわ細く、けれど確かに残っていた。
ーコンー
時間という概念から切り離された場所、異世界相談所。縁側では、尊が寝転がったまま四季庭を眺めていた。
「今日も平和だねぇ」
ぽつりと呟く。その隣では、松平が静かに急須へ湯を注いでいる。今日のお茶は、爽やかな香りの煎茶だった。
「尊様、お茶が入りました」
「ありがとう、松ちゃん」
尊は身体を起こし、嬉しそうに湯呑みを受け取る。一口飲む。
「……おいしい、春の味がする」
松平も同じ煎茶を口へ運ぶ。相談者が飲むものと同じものをいただく。それが、この相談所で変わることのない習慣だった。尊は四季庭を見つめながら笑う。
「最近少しずつ、白い本が変わってきた気がする」
松平の手が、一瞬だけ止まる。けれど、その表情は変わらない。
「そうでしょうか」
「うん。まだ名前はないけど、何だか少しだけ近付いてきた感じ」
尊は不思議そうに笑った。
「そのうち思い出せるかな」
松平は静かに微笑む。
「きっと、その日が参ります」
穏やかな時間だった。四季庭では桜が舞い続けている。その時。
ーカランー
相談所の奥から、澄んだ鈴の音が響いた。尊は自然と微笑む。
「来たね」
松平は静かに立ち上がる。
「お迎えに参ります」
「お願い」
「はい」
クラシカルなメイド服の裾を整え、松平は静かに廊下を歩いていく。尊はその背中を見送りながら、小さく呟いた。
「今日は、どんな人生なんだろう」
その声は、風へ静かに溶けていった。
受付の奥、一枚の扉が静かに開いていた。その先にある部屋は、今回も相談所が選んだ「一番安心できる場所」、そこは、小さな音楽室だった。午後の柔らかな陽射しが、大きな窓から床へ差し込んでいる。壁には古びた五線譜。棚には楽譜が整然と並び、部屋の隅には一台の古いピアノが置かれていた。譜面台、椅子、そして窓際には、一挺のヴァイオリンが静かに置かれている。
誰も弾いていない。それなのに部屋には、今にも音楽が流れ始めそうな静けさが満ちていた。ただ、その静けさはどこか不自然でもあった。音が満ちる直前のようでいて、肝心の一音だけが欠けている。空気は澄んでいるのに、胸の奥へ薄い棘が刺さるような、そんな落ち着かなさがあった。その部屋の中央で、一人の男性が静かに目を覚ます。
「……」
ゆっくり身体を起こす。最初に目へ映ったのは、窓から差し込む光だった。
「音楽室……」
思わず呟く。懐かしい、学生時代に毎日通った場所。誰よりも長く過ごした場所。男性はゆっくり立ち上がる。譜面台へ近付く。置かれた楽譜を、そっと撫でた。
「変わらないな」
小さく笑う。けれど、その笑みはすぐに消えた。指先に触れた紙の感触が、妙に遠い。まるで、ここにいる自分だけが少しずれているような感覚だった。その時、視線が窓際へ向く。一挺のヴァイオリン…男性はゆっくり歩み寄る。ケースは開いたまま、磨き込まれた木肌が、柔らかな光を受けて静かに輝いている。
「……」
自然と手が伸びる。けれど、あと少しのところで止まった。指先が震える。触れられない、触れたいのに。触れることが怖かった。その怖さは、ただ壊してしまうかもしれないという恐れではない。もっと深いところにある。触れた瞬間、何かが戻ってきてしまう気がした。忘れたはずの痛み、閉じ込めたはずの音、胸の奥に沈めたままの名前にできない何か。ふいに、短い記憶が胸を刺した。発表会の舞台で、弓が震えて最初の音を外した瞬間、客席のざわめきが一斉に耳へ刺さった。そのあと、音楽室で先生に「今日はここまでにしよう」と静かに言われた声だけが、何年経っても消えなかった。
「ごめん。」
誰へともなく、小さく呟く。
「まだ弾けない」
その言葉だけが、静かな音楽室へ落ちた。だが、その声はどこか自分自身へ向けた謝罪にも聞こえた。弾けないのは指ではない。弾けないのは、心のほうだった。
ーコン、コンー
木の扉が静かに叩かれる。
「お目覚めでしょうか」
穏やかな声だった。扉がゆっくり開く。そこには、クラシカルなメイド服姿の少女が立っていた。整った黒髪、穏やかな瞳、静かな笑顔。少女は丁寧に一礼する。
「私は松平と申します。異世界相談所へようこそ」
男性は少し驚いたように振り返る。
「あの……」
松平は優しく微笑む。
「お迎えに参りました」
異世界相談所、聞いたことのない名前だった。けれどその声には、不思議な安心感があった。
「こちらへどうぞ」
松平は静かに歩き始める。男性も小さく頷き、その後ろを歩いた。音楽室を出て、廊下を進む。歩くたび、背後の部屋が少しずつ遠ざかっていく。それなのに、あの部屋の静けさだけが耳の奥に残っていた。やがて景色が開ける。四季庭だった。桜、若葉、紅葉、雪。すべてが一つの庭で静かに息づいている。男性は思わず立ち止まった。
「……綺麗だ」
その声は、驚きよりも安堵に近かった。だが同時に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。美しいものを見るたび、なぜか痛む。理由は分からない。けれど、その痛みは確かにあった。松平は静かに振り返る。
「相談所の四季庭でございます。ここには時間がございません。そのため四季も共に息づいております」
男性は景色を見つめたまま、小さく笑う。
「音楽みたいですね」
松平は首を傾げる。
「音楽ですか?」
「はい」
男性は桜を見つめる。
「春だけ、夏だけ…そんな曲はありません。いろんな音が重なって一つの音楽になります。この庭も、そんな景色ですね」
松平は穏やかに微笑んだ。
「素敵なお考えです」
男性は少し照れくさそうに笑う。
「昔、先生にも同じことを言われました」
その瞬間…ほんの一瞬だけ、男性の表情が曇る。『先生』その言葉に、胸の奥が鋭く疼いた。懐かしいはずなのに、懐かしさだけでは済まない。誰かの声が、遠くで弦を弾くように響いた気がした。けれど、最後まで思い出せない。思い出せないこと自体が、ひどく苦しい。四季庭へ風が吹く。桜の花びらが、ゆっくりと雪の上へ舞い降りる。松平は静かに歩き始めた。
「こちらです」
男性も、小さく頷く。その胸の奥には、まだ名前にできない痛みが残っていた。それはただの喪失ではない。何かを失った痛みであり、何かを守れなかった痛みであり、何より…まだ終わっていないはずの何かを、自分だけが置き去りにしてきたような痛みだった。喉の奥に引っかかったままの音。指先に残る、弾けなかった感触。胸の底で鳴り続ける、誰にも言えない不協和音。けれど、この場所なら。少しだけ話せる気がした。そう思いながら、静かな相談室へ向かって歩き始めた。その背中の奥で、風鈴がひとつ、遅れて鳴った。
ーちりんー
澄んだ音だった。けれど、その一音は庭の静けさに溶けきらず、どこかでわずかに揺れていた。まるで、まだ調律されていない心の奥に触れたように。まるで、ひとつの旋律の中に、どうしても消えない不協和音が混じっているように。その音はすぐに消えた。それでも消えたあとに残る余韻だけが、男性の胸の奥で長く震えていた。




