ありがとうを言えなかった兄 4
相談室には、深い静けさが流れていた。暖炉では小さな炎が揺れ、ほうじ茶の湯気がゆっくりと二人の間を漂っている。窓の外では四季庭を渡る風が桜を揺らし、その向こうでは若葉が静かに光を受けていた。悠斗は俯いたまま、しばらく動かなかった。
弟の最後の「ありがとう」が、今も耳の奥へ残っている。それは時が経っても薄れない。むしろ年月を重ねるほど、鮮明になっていくようだった。
「……先生」
小さく呟いたあと、悠斗は苦く笑う。
「先生じゃありませんね。尊さん」
尊は穏やかに微笑む。
「どちらでも大丈夫だよ。好きに呼んで」
その言葉に、悠斗は小さく頷いた。
「私は、弟へ“ありがとう”を返せませんでした。今でも夢に見るんです。病室で弟が笑って、『兄ちゃん、ありがとう』って言う…そのたびに、私は何度も“ありがとう”って返そうとするのに、声が出ない。目が覚めると、いつも涙だけが残っています」
暖炉の音だけが、静かに響いた。尊は湯呑みをそっと置く。
「悠斗さん。一つだけ聞いてもいいかな」
「はい」
「弟さんは、悠斗さんを嫌いだったと思う?」
その問いに、悠斗ははっと顔を上げる。
「……そんなこと、ありません」
即答だった。
「絶対にありません。弟は最後まで、私を“兄ちゃん”って笑って呼んでくれました」
尊は静かに頷く。
「うん。じゃあ、“ありがとう”って伝わってないと思う?」
長い沈黙が落ちる。悠斗は答えられない。尊は続けた。
「言葉は大切だけど、それより長く残るものがある。弟さんは六歳の頃から、ずっと悠斗さんの背中を見て育った。迎えに来てくれたことも、宿題を見てくれたことも、転んだときに“立て”って言ってくれたことも、全部知っていた。だから最後に“ありがとう”って笑えたんだと思う」
その言葉に、相談室の空気が静かに沈む。悠斗は目を閉じた。幼い弟の姿が浮かぶ。ランドセル、小さな手、転びながらも笑う顔。胸の奥がきしむように痛んだ。
「私は……厳しかったんです。優しくできなかった」
その言葉に、尊はゆっくりと首を横に振る。
「違うよ、悠斗さんは守ってた。弟さんは、それをちゃんと知ってた。だから“ありがとう”だったんだよ」
その瞬間、悠斗の瞳から涙が溢れた。長い年月、心の奥に閉じ込めてきた後悔が、静かにほどけていく。
「私は……伝わってないと思っていました。“ありがとう”を言えなかったから、全部遅かったんだって」
尊は優しく微笑む。
「言えなかった方だけが、ずっと覚えてる。でも、言われた方はもうちゃんと受け取ってる」
その一言が、悠斗の胸に静かに落ちた。やがて悠斗は涙を拭う。
「弟は、本当に優しい子でした。最後まで、私のことばかり心配して笑っていました」
尊は穏やかに頷く。
「うん。きっと今でも笑ってる」
相談室に、再び静かな時間が戻る。そのときだった…尊がふと胸に手を当てる。
「……あれ」
悠斗が顔を上げる。
「どうしました?」
尊は少し困ったように笑った。
「今、“ありがとう”って聞いたら……僕も誰かに“ありがとう”を言えなかった気がした」
その声はとても小さかった。そして次の瞬間、尊の瞳の奥にほんの一瞬だけ“別の光”が差し込む。それは記憶というより、記憶の影だった。誰かの背中、白い光の中で揺れる髪、呼びかけようとして、届かなかった声。
ーだれだー
喉の奥まで出かかったその名は、形になる前に霧のようにほどけていく。胸の奥がきゅっと痛む。まるで長く閉じていた扉の隙間から、誰かが一瞬だけ覗いたようだった。尊は小さく息を呑む。
「……誰だったかな。全然思い出せない。でも、すごく大事な人だった気がする」
その言葉に、松平だけが静かに視線を伏せた。クラシカルなメイド服の胸元で両手を重ねる。その表情は変わらない。けれど指先だけが、わずかに震えていた。
(尊様……その“気配”に触れてしまわれましたか。まだでございます。まだ、その名は思い出してはなりません)
声にはしないまま、松平は静かに息を整える。尊は気付かないまま胸に手を当て、小さく笑った。
「最近、思い出しかけることが増えたな」
悠斗はその横顔を見つめる。
「きっと思い出せます。本当に大切なことは、心が忘れませんから」
尊は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
その言葉は、今度は確かに届いていた。窓の外では四季庭を渡る風が桜を高く舞い上げる。誰にも見えない場所で、静かな「ありがとう」がもう一つ、そっと結ばれていった。




