約束を忘れなかった人 5
相談室には、深い静寂が流れていた。暖炉では小さな炎が揺れ、緑茶の湯気がゆっくりと立ちのぼっている。窓の向こうでは、桜の花びらが雪の上へ舞い降り、若葉が風に揺れていた。玲司は松平を見つめたまま、小さく笑う。涙はまだ頬に残っている。けれど、その表情には、長い年月抱えてきたわだかまりはもうなかった。
「……本当に、迎えに来たんだな」
松平は静かに頭を下げる。
「はい、約束でございましたから」
玲司は目を閉じる。若い日の笑顔が浮かぶ。和菓子屋の店先、出来立てのみたらし団子、笑って手を振った親友。約束は破られていなかった。ただ、自分が知らなかっただけだった。玲司はゆっくりと息を吐く。長く胸を締めつけていたものが、ようやくほどけていく。約束が果たされた安堵と、もうこの声を聞けなくなる寂しさが、同じ温度で胸に満ちていた。
「長かったな、本当に…長かった」
松平は静かに微笑む。
「お待たせいたしました」
その一言だけで十分だった。玲司は何度も頷く。
「ありがとう。もう、それだけでいい」
相談室には、穏やかな静けさが戻る。尊は二人を静かに見つめていた。やがて、ゆっくりと姿勢を正す。
「玲司さん」
玲司も静かに尊を見る。尊は穏やかな笑顔のまま口を開いた。
「ここへ来た人には、三つの道があります」
玲司は静かに耳を傾ける。
「一つ、この異世界相談所で心が落ち着くまで過ごすこと。ここには時間がありません。だから急ぐ必要もありません」
少しだけ間を置く。
「二つめ、輪廻の輪へ還り新しい人生を歩むこと」
そして、尊は優しく微笑んだ。
「最後の三つめ、少しだけ時を遡り人生をやり直すこと。ただし未来がどう変わるかは誰にも分かりません。変わってしまった未来について、僕は責任を取ることはできない」
相談室は静まり返る。玲司は目を閉じた。もし、もう一度若い頃へ戻れるなら、親友と笑い合える日々を、もう一度過ごせるかもしれない。もっと団子を食べて、もっと馬鹿な話をして「また帰る」…その言葉を、もう一度聞けるかもしれない。けれどそれは、今ここで約束を果たしてくれた松平との再会まで、消してしまうことになる。玲司は静かに首を横へ振った。
「私は、輪廻の輪へ還ります」
尊は穏やかに頷く。
「理由を聞いてもいいかな」
玲司は松平を見つめた。優しく笑う。
「約束は、もう果たしてもらいました。だから今度は、新しい約束を作る人生を歩いてみたい。そして次は待つだけじゃなく、自分から迎えに行ける人になりたい」
その声には、もう迷いはなかった。尊は嬉しそうに微笑む。
「その選択、受け取った」
そう言うと、尊は静かに両手を合わせる。
ーパンッー
澄んだ柏手の音が、相談室へ優しく響く。何もなかった空間に、一枚の古い木の扉が現れた。木目には長い年月が刻まれ、その隙間から柔らかな白い光が漏れている。その先に何があるのか。尊も知らない。玲司は静かに立ち上がる。まず尊へ深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。人生を聞かせてくれて、ありがとう」
玲司は頷く。そして、ゆっくりと松平の前へ立った。しばらく見つめ合う。何十年もの時間を埋めるような静かな時間だった。玲司は照れくさそうに笑う。
「松平…約束、守ってくれてありがとう」
松平は静かに一礼する。
「玲司様。長い間、お待たせいたしました」
玲司は笑う。
「本当に、お前らしい。昔から律儀だったもんな」
松平も、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
玲司は最後に四季庭を見渡す。桜、雪、若葉、紅葉。どれも美しかった。
「いい景色だ。最後に見られて良かった」
尊は穏やかに笑う。
「またどこかで、きっと会えるよ」
玲司は静かに頷いた。
「その時は、また団子でも食べよう」
尊は思わず笑う。
「うん、約束だね」
玲司は満足そうに笑う。そして白い光の中へ、一歩踏み出した。その瞬間、光はただ明るいだけではなく、静かだった。音を吸い込むように、空気の輪郭をやわらかくほどきながら、玲司の姿を包み込んでいく。扉の向こうから差し込む白は、朝霧のように淡く、それでいて目を逸らせないほど澄んでいた。玲司の輪郭がその光に溶けていくたび、相談室の木の床に落ちた影も、少しずつ薄れていく。足を踏み出した先で、床板がかすかに鳴る。ぎし、と小さく軋んだ音が、やけに遠くまで残った。それは、ここに確かに立っていた証のようでもあり、もう戻れない場所へ向かう足音のようでもあった。
玲司は振り返る。その顔は白い光に照らされ、涙の跡さえもやわらかく浮かんでいた。松平の姿が、尊の姿が、四季庭の色が、ひとつずつ遠のいていく。けれど不思議と、怖くはなかった。胸の奥には、長く固く結ばれていたものがほどけていくような、静かな温かさがあった。
ー…やっと、終わる。
そう思った瞬間、玲司の目の端がまた熱くなる。けれどそれは、悔しさではない。置いていかれた痛みでもない。ようやく届いた安堵と、別れの寂しさが、ひとつになって溢れてくる涙だった。
「……松平」
呼ぶ声は、光に吸われるようにかすかだった。それでも松平は、はっきりと聞き取った。玲司は笑う。その笑みは、若い頃に団子を頬張りながら見せていた、あの無邪気な笑顔に少しだけ似ていた。
「本当に来てくれて、ありがとう」
松平の瞳が、ほんのわずかに揺れる。けれど彼は、最後まで穏やかなままだった。
「玲司様。どうか、お元気で」
その言葉に、玲司は小さく頷く。白い光が、今度は肩口から胸元へと静かに広がっていく。指先が淡く透け、袖口が光にほどけるように消えていく。その感触は、熱くも冷たくもなかった。ただ長い夢から目覚める前のような、やわらかな浮遊感だけがあった。玲司は最後にもう一度、相談室を見渡す。暖炉の火、湯気の立つ緑茶、四季を抱いた庭。そして、約束を守ってくれた親友の姿。すべてを胸に刻み込むように、深く、深く息を吸った。
「……いい人生だった」
その呟きは、光の中へ静かに溶けていく。やがて玲司の姿は、肩から、腕から、足元から、少しずつ白へ還っていった。最後に残ったのは、穏やかな笑みだけだった。それもすぐに光へ包まれ、やがて静かに消えていく。扉もまた、音もなく消えた。相談室には再び静寂だけが戻る。さっきまで誰かが立っていたはずの場所には、もう影ひとつ残っていない。ただ、暖炉の火だけが変わらず揺れ、緑茶の香りだけが、静かに部屋へ残っていた。
窓の外では、桜が舞い、雪が降り、若葉が揺れ、紅葉がひらひらと池へ落ちていく。四季は何事もなかったように巡っている。けれど相談室の中だけは、たった今まで確かにあった別れの余韻を、そっと抱えたまま動かない。尊はしばらく扉の消えた場所を見つめていた。そして、何も言わずに目を伏せる。その沈黙は、別れを惜しむためのものではない。誰かの人生が、たしかにここにあったと確かめるための、静かな祈りだった。
やがて尊は、ほんの少しだけ息を吐く。その気配に応えるように、松平が扉のあった場所へ向かって歩み寄る。足音はほとんどしない。ただ畳を踏む衣擦れだけが、かすかに響いた。松平はそこで立ち止まり、誰にも気付かれないほど小さく、もう一度だけ頭を下げる。その背中はいつも通り静かで、けれどどこか…ほんの少しだけ遠かった。相談室には、もう誰の声もない。あるのは暖炉の火の揺らぎと、湯気の薄い輪郭と、四季庭を渡る風の音だけ。それらすべてが玲司が確かにここにいたことを、言葉の代わりに静かに語っていた。




