約束を忘れなかった人 4
相談室には、ひと筋の湯気だけが漂っていた。玲司は湯呑みを見つめたまま、しばらく言葉を探していた。指先に触れる陶器の温度が、妙に遠い。胸の奥に沈めてきたものを、今さら掘り起こすのは怖かった。それでも、ここまで来てしまった以上、もう目を逸らすことはできない。小さく息を吐く。
「私は…」
声が少し掠れた。
「怒っていたわけじゃないんです。恨んでもいません」
言いながら、玲司は自分でも気づかぬほどわずかに肩を落とした。長い年月のあいだ、何度も何度も心の中で繰り返してきた言葉だった。怒りではない、恨みでもない。ただ、どうしても埋まらない空白があった。
「でも約束だけは守る人でしたから……」
その一言に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「どうして来てくれなかったのか…それだけは最後まで分かりませんでした」
言い終えた玲司は、湯呑みの縁を見つめたまま動けなかった。問いかけた相手は、もうこの世にいないのかもしれない。そう思いながらも、ずっと答えを待ち続けていた。尊はしばらく何も言わなかった。玲司の言葉を、そのまま受け止めるように静かに頷く。その沈黙は、慰めでも否定でもなく、ただ「ここで話していい」と告げるためのものだった。そして…ゆっくりと視線を松平へ向けた。
「松ちゃん」
その呼びかけだけで十分だった。松平は静かに一礼する。クラシカルなメイド服の裾が、小さく揺れた。
「……はい」
返事はいつも通り穏やかだった。けれど、その一音の奥に、ほんのわずかな硬さが混じっていた。尊は穏やかな声で言う。
「今日は、君から話してあげて」
相談室の空気が、ほんの少しだけ変わる。玲司は驚いたように松平を見る。これまで受付以外で、松平が相談者へ自分から話す姿を見たことはなかった。その静かな横顔が、今はどこか遠くを見ているように見える。松平はゆっくりと玲司へ向き直る。長い沈黙。その間、玲司は息をすることさえ忘れていた。松平の瞳が、ほんの少しだけ揺れる。普段なら決して見せない、かすかな迷いだった。やがて、ゆっくりと頭を下げた。
「玲司様」
その呼び方に、玲司の瞳が大きく揺れる。胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「……やっぱり」
掠れた声だった。
「お前…」
言葉の続きを探すように唇が震える。松平は顔を上げる。その表情はいつもと変わらず穏やかだった。けれどその瞳だけが、ほんの僅かに揺れていた。長い年月を越えてなお、消えなかったものがそこにあった。
「長い間、お待たせいたしました」
玲司は息を呑む。その一言が、胸の奥に深く沈んでいく。待たせた…その言葉は、約束が生きていた証だった。玲司の喉が詰まる、言葉が出ない。松平は静かに続ける。
「約束を忘れたことは、一度もございません。毎年、玲司様を思い出しておりました」
その声は落ち着いていた。けれど言葉の端々に、長い時間を耐えてきた重みが滲んでいる。玲司は首を横へ振る。
「だったらどうして、帰って来なかった」
責める響きはなかった。ただ何十年も胸に刺さったままだった棘を、ようやく言葉にしただけだった。松平は、そこで初めて深く息を吸った。胸がわずかに上下する。その一呼吸に、どれほどの覚悟が必要だったのか、誰にも分からない。そして、静かに言った。
「帰れませんでした」
玲司の肩が、わずかに揺れる。松平は視線を落としたまま、続けた。
「私は、命を落としました」
相談室が、音を失う。玲司は目を見開いたまま動けない。
「……え」
その一音だけが、かすれて落ちた。理解が追いつかない。いや、追いつきたくなかったのかもしれない。松平は、逃げるような言い訳をしなかった。ただ事実だけを、まっすぐに差し出した。
「任務の途中でした。助けを求める方がおられました。その方を守り…私は帰れませんでした」
言いながらも、松平の指先は膝の上で静かに握られていた。白い手袋の下で、わずかに力が入る。それは、過去を語る痛みを堪えるための、ほとんど無意識の仕草だった。玲司の喉が、ひどく震える。何も言えない、何も返せない。ただ、目の前の松平を見つめることしかできなかった。その顔は、あの頃と変わらない。けれど、もう二度と触れられない時間の向こう側にいる。松平は深く頭を下げる。
「申し訳ございません。約束を守れませんでした」
その瞬間だった。玲司の瞳から、堪えていたものが一気に溢れた。最初は一滴だった。それが頬を伝った途端、次々と後から後からこぼれ落ちる。
「違う」
声が震える。
「違うだろ。そんなこと、知らなかった。誰も教えてくれなかった」
玲司は涙をこぼしながら、首を横へ振り続ける。長い間、胸の奥で固まっていた怒りも、寂しさも、置き去りにされた痛みも、今はただ真実の前で形を失っていく。
「私は、ずっと約束を破られたと思ってた。なのに、お前は帰りたくても、帰れなかったのか」
その言葉を聞いた松平のまぶたが、ほんのわずかに揺れた。けれど、涙は落ちない。落とさないようにしているのではなく、ただ今は玲司の言葉を受け止めることを優先しているようだった。松平は静かに頷いた。
「はい」
その一言は、あまりにも静かで、あまりにも重かった。
「ですが約束は、忘れておりません。いつか必ず迎えに参ります。そう心へ決めておりました」
その言葉を口にした瞬間、松平の声がほんの少しだけ震えた。ほんの僅かだった。けれど、それは玲司の耳に確かに届いた。長い年月を、ただ一つの約束に縋って生きてきた者の声だった。玲司は涙を拭うことも忘れ、松平を見つめ続けていた。視界が滲んでいるのに、目を逸らせなかった。そこにいるのが、確かにあの頃の友だったからだ。
「じゃあ…」
掠れた声が落ちる。
「今日、迎えに来たのか」
松平は穏やかに微笑んだ。その笑みは、どこか懐かしく、そして痛いほど優しかった。
「はい、約束を果たしに参りました」
その笑顔は人として生きていた頃と、何一つ変わっていなかった。玲司は、とうとう笑ってしまう。涙を流しながら。喉の奥から漏れた笑いは、安堵と驚きと、どうしようもない愛しさが混ざったものだった。
「本当に馬鹿だな。何十年も律儀に約束を守るなんて」
松平も、小さく微笑んだ。その微笑みには、ようやく辿り着けたという安堵が滲んでいた。
「昔から、そういう性分でございました」
玲司は涙を拭う。指先が頬を何度も擦るが、次から次へと溢れてくる。それでも、今度はもう苦しくなかった。
「ありがとう、迎えに来てくれて。これでやっと、約束が終わる」
その言葉を口にした玲司の顔は、泣き腫らしているのに、どこか晴れやかだった。長い年月、胸の奥で鳴り続けていた問いが、ようやく静かにほどけていく。尊は二人を静かに見つめていた。何も言わない。今日、この時間は、二人だけの時間だから。窓の外では、ひとひらの光が静かに揺れていた。長い年月を越えた約束は、ようやく今…静かに果たされたのだった。




