約束を忘れなかった人 3
相談室には、穏やかな静けさが流れていた。緑茶の湯気が、ゆっくりと二人の間を漂う。暖炉では小さな炎が揺れている。窓の向こうでは、桜が雪の上へ静かに舞い降りていた。その景色は美しいはずなのに、どこか現実離れしていて、見つめていると時間の感覚が少しずつ薄れていく。玲司は湯呑みを両手で包んだまま、小さく息を吐く。その指先には、長い年月を生きてきた皺が刻まれている。けれど今は、その手がわずかに強張っていた。
「戦争が始まると、町は少しずつ変わっていきました。笑う人が減って、若い人たちは一人、また一人と町を離れていったんです」
尊は静かに耳を傾けている。急がせることも、口を挟むこともない。ただ、玲司の言葉が落ちるたびに、相談室の空気が少しずつ沈んでいくのを見守っていた。玲司は遠くを見るように目を細めた。その視線の先には、もう戻れない昔の町並みがあるのだろう。
「私の家は和菓子屋でした。父も年を取っていましたから、私は店を継ぐことになりました。親友は町を出ることになったんです。人を助ける仕事に就くと、そう決めていました」
玲司は少しだけ微笑む。その笑みには、懐かしさがあった。同時に、胸の奥を押さえ込むような痛みも滲んでいた。
「あいつらしいと思いました。子どもの頃から、困っている人を見ると放っておけない奴でしたから」
言いながら、玲司は湯呑みの縁を親指でなぞる。その仕草は何気ない。けれど、どこか落ち着かない。思い出を語るたびに、胸の奥で何かが静かに軋んでいるのだろう。暖炉の火が、小さく揺れる。
「旅立つ日の朝、二人でいつもの和菓子屋へ行きました。父が『今日は特別だ』と言って、出来立てのみたらし団子を出してくれたんです」
玲司は懐かしそうに笑う。
「熱くて、口の中を火傷してしまって。それでも二人で笑いました。最後まで、いつも通りでした」
その「いつも通り」という言葉には、もう戻らない日々への愛惜が滲んでいた。相談室には穏やかな空気が流れている。けれど玲司の胸の内では、あの日の朝の光景が、今も鮮やかに焼き付いて離れない。湯気の立つ団子、笑い合う声。そして、別れ際のあいつの顔。
「別れ際、あいつは笑って言ったんです。『玲司。また帰ってくる。約束だ』って」
玲司はそこで一度、言葉を切った。喉の奥が、わずかに詰まる。その一瞬だけ、表情が硬くなる。
「私は『待ってる』と答えました」
少し間が空く。玲司の表情が少しずつ曇っていく。その曇りは、単なる悲しみではなかった。何度も飲み込み、何度も押し殺してきた感情が、静かに顔を出している。
「でも、帰ってきませんでした」
静かな声だった。怒鳴るでもなく、責めるでもなく、ただ事実として口にしたその一言の裏には、長い年月をかけて積もった喪失があった。帰ってこないと知った瞬間の空白。待ち続けるしかなかった日々の重さ。そして、待つことをやめられなかった自分への苦さ。
「一年、二年、三年と過ぎていきました。手紙だけは届いたんです。『元気です』『怪我はありません』『町は変わりありませんか』、そんな手紙でした」
玲司は目を伏せる。その睫毛の影が、頬に落ちる。
「私も返事を書きました。『団子屋は元気だ』『町のみんなも待っている』『早く帰ってこい』と、何通も、何通も送り続けました」
言葉を重ねるたび、玲司の指先が湯呑みを少し強く握る。まるで、その紙片の向こうにいる親友へ、今もなお声を届けようとしているかのようだった。緑茶を一口飲む。もう緑茶は、少し冷めていた。そのぬるさが、かえって胸に沁みる。
「そして、ある日、手紙が来なくなりました」
相談室には静かな沈黙が落ちる。その沈黙の中で、玲司はほんのわずかに肩を落とした。あの日から何かが終わったのだと、頭では分かっていたのだろう。けれど心は、ずっと終わりを認めなかった。
「一年、二年と待っても、返事はありませんでした。それでも、私は待ちました。約束していましたから」
玲司は小さく笑う。その笑みは優しさと痛みが混ざり合った、ひどく脆いものだった。
「店の前を通る人を見るたびに、あいつじゃないかと思ってしまうんです。祭りの日も、正月も、桜が咲く春も、帰ってくると信じていました」
その言葉の裏には、何度も裏切られた期待がある。足音が聞こえるたびに振り返ったこと。遠くに見える背中へ、何度も名前を呼びかけそうになったこと。違うと分かっていても、心だけは諦めきれなかったこと。長い沈黙。窓の外では、一枚の桜が池へ舞い落ちる。
「十年が過ぎました。二十年も経ちました」
玲司はそこで、ほんの少しだけ唇を結んだ。長い年月を数える声は落ち着いていた。けれどその奥には、積み重なった空白の重みがあった。
「店は私が継ぎました。父も母も、先に旅立ちました。町も少しずつ変わりました。でも、私はあいつとの約束だけは忘れませんでした」
その声には、長い年月が静かに積み重なっていた。
「毎年、団子を二本用意するんです。一本は私の分。もう一本は、あいつの分です」
玲司は少し照れたように笑う。だがその笑みの端には、どこか自嘲にも似た影があった。
「馬鹿でしょう。帰ってこないって、みんな知っているのに。それでも、私は置き続けました。約束でしたから」
尊は静かに頷く。玲司は続けた。
「町の人は、『もう忘れなさい』『きっとどこかで幸せに暮らしているよ』と、そう言いました」
その言葉を思い出したのか、玲司は一瞬だけ視線を落とす。忘れろと言われるたび、胸の奥で何かが静かに反発したのだろう。忘れたくないのではない。忘れたら、あの日の約束まで消えてしまう気がしたのだ。
「でも、忘れられませんでした。私は、あいつに一つだけ聞きたいことがあったんです」
玲司は湯呑みを見つめる。その水面には、揺れる炎の光が映っている。
「どうして、約束を守ってくれなかったんだろう、と」
その言葉が落ちた瞬間、相談室の空気が少しだけ変わる。玲司は苦く笑った。だがその笑みは、決して軽いものではなかった。長く押し込めてきた怒りが、ほんの少しだけ顔を出したような、そんな苦さだった。
「怒っていたわけじゃないんです。恨んでもいません。でも、理由だけは知りたかった。約束だけは絶対に破らない人だったから…」
その一言に、相談室は深い静寂へ包まれた。暖炉の火だけが、小さく揺れている。尊は何も言わない。ただ静かに玲司を見つめていた。部屋の隅では、松平がいつものように静かに立っている。その表情は変わらない。
けれど握り締めた白い手袋の指先だけが、ほんのわずかに震えていた。最初は、見間違いかと思うほど小さな震えだった。だが次の瞬間、その震えは確かに続いていた。白い布の内側で、指が一度きゅっと縮こまる。次いで、親指の付け根あたりがかすかに引きつるように動き、手袋の表面に細い皺が寄った。まるで、何かを堪えるように。あるいは、聞きたくなかった言葉を、耳ではなく身体の奥で受け止めてしまったように。
松平は動かない。顔色も変えない。呼吸さえ、いつも通りに見える。それでも、そこだけが妙に浮いていた。白い手袋の先端が、ほんの一瞬だけ硬くなり、次の瞬間にはまた静かに力を失う。その震えは、ただの動揺ではなかった。名前を聞いた瞬間に、胸の奥のどこか古い扉が、かすかに軋んだような震えだった。
「玲司」という名。
「約束」という言葉。
その二つが松平の中に眠っていた何かを、静かに叩いたのだろう。誰も気付かないはずの小さな違和感が、相談室の空気に薄い波紋を広げていく。玲司はまだ気付いていない。尊も、今はただ話を聞いていた。松平だけが、なぜ震えたのか。その名を聞いたからなのか。それとも玲司の語る「約束」に、別の記憶が触れたからなのか。答えはまだ、どこにもない。
ただ一つだけ確かなのは、その震えが、ただの動揺では終わらないということだった。松平はゆっくりと手を下ろした。だが白い手袋の内側に残ったわずかな緊張は、まだ消えていない。相談室には、変わらぬ静けさが戻ったように見える。けれどその静けさは、もう先ほどまでのものではなかった。どこか薄く、どこか張り詰めている。
尊は何も言わない。ただ静かに玲司を見つめていた。そして松平の方へは一度も視線を向けないまま、穏やかな声で次の言葉を待っていた。その沈黙の底で、何かが確かに動き始めている。誰もまだ、その正体を知らないまま。




