約束を忘れなかった人 2
障子が静かに開いた。
「尊様。相談者様をお連れいたしました」
「どうぞ」
松平は一礼し、部屋へ案内する。
「失礼いたします」
相談室には、いつもの穏やかな空気が満ちていた。丸い木の机、湯気の立つ湯呑み、揺れる暖炉の火。窓の向こうには四季庭が広がり、春の桜、夏の若葉、秋の紅葉、冬の雪が、ひとつの景色として静かに息づいている。机の向こうでは、青年が穏やかに微笑んでいた。
「いらっしゃい。異世界相談所へようこそ」
男性は少し戸惑いながら頭を下げる。
「……高瀬玲司と申します」
その声は、年齢を重ねた喉の奥で少し擦れ、最後のほうがかすかに揺れていた。背筋はまだ保たれているが、立ち上がるときに膝へわずかなためらいがある。長く歩いてきた身体が、静かに歳月を語っていた。尊は笑った。
「僕は尊。ここで皆さんのお話を聞いているよ。どうぞ座って」
玲司は静かに腰を下ろす。座布団へ身体を預ける動きにも、ほんの少しだけ間があった。目の前の緑茶から立つ香りに、思わず目を細める。
「懐かしい……」
その一言は、記憶の奥からようやく掬い上げたように、ゆっくりとこぼれた。尊は嬉しそうに頷く。
「そう感じたなら、今の君に必要なお茶なんだろうね」
玲司は湯呑みを両手で包み、一口飲んだ。指先は少し節くれ立ち、湯呑みの熱を確かめるように、しばらくそのまま動かなかった。
「昔、友達とよく飲みました」
その言葉に、松平がほんのわずかに目を伏せる。だが、誰もその変化には気づかない。玲司は湯気を見つめながら、ゆっくり話し始めた。
「私は、小さな和菓子屋の息子でした。父も母も朝から晩まで働いていて、私はその店で育ったんです」
言いながら、玲司は少しだけ目を細める。遠い昔の景色を思い出そうとするときの、人の目の奥に宿る、あの滲むような光があった。学校が終われば店を手伝い、閉店後は友達と団子を食べる。そんな毎日だったという。
「貧しかったですけど、幸せでした」
その言葉には、今の暮らしではなく、もう戻れない時間をそっと撫でるような温度があった。言い終えたあと、玲司は小さく息を吐く。長く話すと少し息が続かないのか、次の言葉を探す間に、ほんの短い沈黙が落ちる。尊が静かに尋ねる。
「その頃の友達って、どんな人だったの?」
玲司の表情がやわらぐ。
「同い年で、何をするにも一緒でした。喧嘩もしたし、笑い合いもした。困っている人を見ると、放っておけない奴で……責任感が強くて、約束だけは絶対に破らない人でした」
宿題を忘れた時も、父に叱られた時も、気づけば隣にいた。玲司はそう言って、少し笑う。だがその笑みは、若い頃のようにすぐには浮かばず、思い出の輪郭を確かめるように、ゆっくりと形を取っていく。
「何度助けてもらったか分かりません。店が忙しい日は、二人で団子を食べながら将来の話をしました。『大人になったら何になる?』『人の役に立つ仕事がしたい』『じゃあ俺は和菓子屋を継ぐよ』って。そして、いつかまたここで団子を食べようと約束しました。本当に優しい奴でした。自分より、いつも人のことばかり考えていて。だから町の皆にも好かれていました」
尊は穏やかに微笑む。
「素敵な友達だったんだね」
「ええ。私にとって、一番の親友でした」
しばしの沈黙のあと、玲司は窓の外へ目を向けた。四季庭では桜が静かに舞っている。
「でも…」
その一言で、空気が少し変わった。
「戦争が始まりました」
玲司の声は、先ほどより低い。けれど低いというより、胸の奥で長く押し込めていたものが、ようやく喉元へ上がってきたような響きだった。
「朝になると駅前に立つ男たちが増えて、腕章をつけた人が通りを行き来する。誰かの名前が呼ばれるたび、店先の空気が固くなるんです」
言葉を重ねるうちに、玲司の視線は少しずつ遠くへ泳いだ。今ここにいる相談室ではなく、何十年も前の町へ戻っていくように。記憶は鮮明というより、ところどころが薄くなり、そこへ感情だけが濃く残っている。
「八百屋の奥さんは毎朝、野菜を並べる前に掲示板を見ていました。魚屋の親父は、いつもより早く店を閉めて無言で帰っていく。寺の鐘が鳴ると、通りを歩いていた人たちが一斉に空を見上げるんです」
玲司はそこで一度言葉を切った。喉が乾いたのか、湯呑みを持ち上げる手がわずかに震える。飲み込む動作も、若い頃より少しゆっくりだ。
「笑い声は少しずつ減っていった。夕方には、防空訓練の笛が子どもの遊ぶ声より先に聞こえる。団子を買っても、縁側で食べていく人は減った」
その語り口には、ただ出来事を並べるだけではない、老いた人間だけが持つ重みがあった。ひとつひとつの場面が、長い年月の底で沈殿し、今ようやく静かに浮かび上がってくる。
「若い人たちも次々と町を離れていきました。駅のホームには見送りの人が並んで、風呂敷包みを抱えたまま何度も頭を下げる。汽車が動き出すと手を振るんですが、その手が途中で止まるんです。見送る側も見送られる側も、笑っているのに目だけが笑っていません」
玲司は湯呑みを持ち上げ、静かに続けた。
「ある日、役場の前に赤い紙が貼られました。朝は誰も近づかず、昼を過ぎる頃には人だかりができていた。でも、誰も声を出さない。ただ、じっと見ているだけなんです」
その場面を語る玲司の声は、少しだけ掠れていた。思い出したくないのではない。思い出すたびに、胸の奥で何かが静かに軋むのだろう。
「誰かが小さく息を呑み、誰かが子どもの肩を引いて後ろへ下がる。風が吹くたび、紙がぱたぱたと揺れ、その音だけがやけに大きく聞こえました。帰り道では、商店街の戸が一軒、また一軒と閉まっていく。昼なのに暖簾を下ろした店が増え、表に出ていた椅子や植木鉢も奥へ引っ込められました。子どもが走れば母親が呼び戻し、犬の鳴き声さえ遠くへ吸い込まれていくようで。私たちも……別々の道を歩くことになったんです」
その声は静かだったが、長く抱えてきたものが少しずつ滲んでいた。玲司はそこで一度、目を閉じる。閉じた瞼の裏に、失われた町の景色がまだ残っているのだろう。
「……あいつも、その頃から少し変わりました。前みたいに笑っていても、時々遠くを見るような目をする。店先で風鈴が鳴ると、すぐに返事をしない。まるで、どこかへ呼ばれるのを待っているみたいでした」
尊は何も言わず、ただ静かに耳を傾ける。玲司は小さく笑った。
「それでも、最後まで約束だけは忘れない奴でした」
相談室には、薬缶の湯気と暖炉の火だけが、穏やかに時間を刻んでいた。




