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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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名を捨てた侍

【備忘録】


名は、人が生きた証となる。

だが、誰にも知られぬまま散る命にも、確かに残るものがある。


ー尊ー


相談所には、今日も時間が流れていなかった。廊下に並ぶ柱時計も、壁に掛けられた振り子時計も、卓上時計も。どれも違う時刻を指したまま、針を止めている。ここでは、時は誰のものでもない。だからこそ、人生を振り返るには都合の良い場所だった。松平は静かに受付へ立ち、1冊の帳面を閉じる。


「……お目覚めになられたようです」


その言葉に、尊は本から顔を上げた。


「今回の相談者は?」

「東方世界から来られた方です」


尊は静かに立ち上がる。


「珍しいね」


「はい。お迎えいたします」





目を覚ました男は、ゆっくりと息を吸った。鼻をくすぐるのは、檜の香り。畳の柔らかな感触。障子から差し込む穏やかな光。


「……ここは?」


低い声が部屋に響く。男はゆっくりと起き上がる。着物は裂けてもおらず、血も付いていない。腹へ手を当てる。あるはずの傷がなかった。


「……死んだはずだ」


静かに呟いた、その時だった。障子が音もなく開く。


「ようこそ、異世界相談所へ」


小柄な少女が一礼する。


「私は受付兼案内人、松平と申します」


男は少女を見つめた。警戒はしている。だが、刀へ手は伸びない。もう戦う必要がないと、本能で理解していた。


「異世界相談所……?」

「はい」

「死者が訪れる場所か?」

「そう考えていただいて差し支えありません」


男は静かに頷いた。


「そうか」


それ以上は何も聞かない。松平は少し微笑む。今まで数え切れない相談者を迎えてきたが、この男ほど取り乱さない者は珍しかった。


「ご案内いたします」


廊下を歩く。男は足を止めた。庭が見えたからだ。桜が咲いている。その隣では紅葉が色付き、さらに奥には青々とした若葉。反対側には雪景色。四つの季節が1つの庭に存在していた。


「……面白い庭だ」

「お気付きになりましたか」


松平は少し嬉しそうに笑う。


「ここでは四季が共に暮らしております」


男はそれ以上聞かなかった。聞いても理解できない。そう思ったからだ。やがて襖の前へ着く。


「こちらです」


襖が開く。畳の香り、障子から射し込む柔らかな光、壁一面を埋め尽くす本棚、数え切れない本。しかし、どの本にも題名が書かれていない。男は本棚を見つめる。


「……妙だな」

「どうされました?」

「本に名前がない」


松平は少しだけ微笑んだ。


「理由は、尊様がお話しくださいます」


男は静かに室内へ入る。そこには一人の青年が座っていた。黒髪、黒い瞳。年は20代半ばほどに見える。湯気の立つ急須を前に、穏やかに笑っていた。


「いらっしゃい」


その一言だけで、不思議と肩の力が抜ける。青年は自ら湯飲みに茶を注ぎながら言った。


「和菓子は好き?」

「……嫌いではない」

「良かった」


皿には串団子と羊羹。東方世界では見慣れた菓子だった。男は青年の向かいへ座る。


「私は桐生玄十郎きりゅうげんじゅうろう。君の名前は?」


青年は少しだけ困ったように笑う。


「ああ、まだ名乗っていなかったね。僕は尊。この相談所で相談役をしている」


玄十郎はその名を胸の中で繰り返した。


「尊か」

「うん。よろしく」


それだけだった。尊は茶を一口飲み、静かに微笑む。


「玄十郎。君は、何を後悔している?」


その問いに、玄十郎は少し考えた。長い人生だった。振り返れば、思い出はいくらでもある。だが…。


「……後悔はない」


そう答えた。尊は驚かない。


「そう。なら聞き方を変えよう。君の人生を聞かせてほしい」


玄十郎は少しだけ目を細めた。


「人生、か」

「うん。君という人間を知りたい」


その言葉に嘘はなかった。玄十郎は湯飲みを手に取る。温かい茶の香りが鼻を抜ける。どこか懐かしい味だった。


「死後の世界……面白いお方だな」

「よく言われる」


尊は照れくさそうに笑う。その笑顔を見て、玄十郎は小さく息を吐いた。


「分かった。なら話そう。俺が、どう生きたかを」


静かな風が庭を渡る。止まった時計、題名のない本棚、湯気の立つ急須。そして、一人の侍が、自らの人生を語り始める。玄十郎は湯飲みを両手で包み込むように持ち、一口だけ茶を含んだ。口いっぱいに広がる香ばしい味に、小さく息を吐く。


「……美味い茶だ」

「ありがとう」


尊は嬉しそうに微笑み、自分の湯飲みにも茶を注いだ。相談室には穏やかな静寂が流れている。時計の針は今日も止まったまま。庭では桜の花びらが舞う一方で、紅葉が風に揺れ、雪が静かに積もっている。玄十郎はその不思議な景色を一度だけ眺めると、静かに語り始めた。


「俺は、小さな武家の次男として生まれた。兄が家督を継ぐことは、生まれた時から決まっていた。だから俺は自由だった。幼い頃から剣を振り回し、山を駆け回り、毎日のように父に怒鳴られていた。」


玄十郎の口元が自然と緩む。


「父はよく言っていた。『武士とは、斬る者ではない。守る者だ』と。子どもの俺には、その意味が分からなかった。強い者が偉い。剣が強ければ、それで十分だと思っていた」


尊は静かに耳を傾けている。急かすことも、口を挟むこともない。玄十郎は少しだけ懐かしそうな目をした。


「15になった頃には、父より剣が強くなっていた。町道場でも負けなしだった。天狗になっていたんだろう。ある日、旅の老人に勝負を挑んだ。結果は、一太刀も浴びせられなかった。」


玄十郎は苦笑した。


「その老人は俺にこう言った。『剣は人を倒すためにあるのではない。守るためにある』父と同じことを言われた。その時は腹が立った。負け惜しみだと思った。今思えば、若かったな」


尊は少しだけ笑う。


「若い頃は、そういうものだよ」

「…そうかもしれんな」


玄十郎は湯飲みを置いた。


「20になった頃、藩主様の近習として城へ上がることになった。主君はまだ16。世間知らずで、剣も弱く、勉学も好きではない。家臣たちは陰で呆れていた。だが俺は違った。人の話をよく聞く方だった。身分に関係なく、皆へ頭を下げられる方だった。そんな殿様を、俺は初めて見た」


尊は頷く。


「だから仕えることにした」

「……ああ」


玄十郎の声は静かだった。


「忠義なんて立派なものじゃない。この人なら命を預けてもいいと、そう思っただけだ」


庭を吹き抜けた風が障子を優しく揺らした。


「城勤めを始めて数年、妻と出会った」


少しだけ照れくさそうに笑う。


「町娘だった。武家の娘じゃない。茶屋で働く、よく笑う女だった。初めて会った時、団子を一本おまけしてくれた。…それだけで好きになった」


尊が吹き出す。


「団子一本で?」

「笑うな」


玄十郎も珍しく笑った。


「今思えば単純だ。だが、あいつは笑顔が良かった。俺みたいな堅物にも、分け隔てなく笑ってくれた。気付けば毎日のように茶屋へ通っていた。団子代の方が給金より減るんじゃないかと、同僚に笑われたものだ。そして夫婦になった。娘も生まれた」


玄十郎の表情が柔らかくなる。


「小さかった。泣き虫で、俺が抱くと泣き止んだ。妻は悔しがっていた」


その光景が目に浮かぶようだった。


「娘は、俺を見るたび木刀を持ちたがった。まだ3つなのに、父親に似たんだろう」


尊は微笑みながら尋ねる。


「名前は?」


玄十郎は少しだけ目を細めた。


「……椿。春に生まれたのに、冬でも美しく咲く花のような子になってほしい。そんな願いを込めた」


その名前を口にした瞬間、玄十郎の瞳にわずかな寂しさが宿る。


「幸せだった。本当に。剣を振り、殿を守り、家へ帰れば妻と娘がいる。それだけで十分だった」


静かな沈黙が流れる。尊はその続きを知っている。だが、決して先を促さない。玄十郎自身の口で語ることに意味があるからだ。玄十郎は静かに息を吸う。


「……だが」


その一言で、相談室の空気が変わった。


「平和なんてものは、長くは続かない」


湯飲みの中の茶が、小さく揺れる。


「ある夜、城へ一本の早馬が駆け込んできた。隣国が攻めてきた。それも、殿の首だけを狙って」


玄十郎はゆっくり拳を握る。


「その夜から俺の人生は、大きく変わり始めた」


玄十郎は静かに茶を飲み干すと、ゆっくりと続きを語り始めた。


「隣国との戦は、長く続いた。国境では小競り合いが絶えず、城下町にも不穏な空気が流れていた。それでも殿は変わらなかった。『民が安心して眠れる国を作りたい。』…それが口癖だった。戦の最中でも、城下へ降りては子どもたちと話し、年寄りの話にも耳を傾けていた」


玄十郎は穏やかに笑う。


「家臣たちは心配していた。『殿自ら町へ出るなど危険です』と。だが殿は笑って答えた。『民の顔を知らぬ殿様では、国は治められぬ。』……あの方らしい言葉だった」


尊は湯飲みを持ちながら静かに頷く。


「良い主君だったんだね」

「ああ」


玄十郎は迷いなく答えた。


「だから守りたかった」


しばらく沈黙が流れる。やがて玄十郎は視線を庭へ向けた。


「娘も少しずつ大きくなった。俺が帰ると、一番に駆け寄ってくる。『父上!今日は勝った?』…勝ったも負けたも分からん年頃なのにな。俺の刀を持ちたがって、妻によく叱られていた」


自然と頬が緩む。


「ある日、椿が聞いてきた。『父上は、どうして毎日お仕事へ行くの?』と。俺は少し考えて答えた。『皆を守るためだ』すると『椿も?』と聞いてきた。『もちろんだ』と伝えると『じゃあ椿も父上を守る!』そう言って、小さな木の枝を刀代わりに振り回していた」


玄十郎は目を細める。


「その姿を見て思った。俺は、この子が笑って生きられる世を守りたい。それだけだった」


尊は何も言わない。ただ静かに耳を傾ける。


「戦は激しくなった。敵も正面から攻めてこなくなった。忍びが城へ入り込むようになった。毒、放火、暗殺、手段を選ばなくなった」


玄十郎の声が低くなる。


「そして、ある晩。城へ密書が届いた。『三日後の夜。城内に内通者あり。殿を討つ』」


相談室の空気が少し張り詰める。


「家臣たちは騒ぎになった。誰が裏切り者なのか、誰を信じるべきか。疑いは城中へ広がった。…殿だけは違った。『皆を疑うことはできぬ。』そう言って笑っていた」


玄十郎はゆっくり首を振る。


「あの方は優しすぎた。だから、俺が動いた」


尊が静かに尋ねる。


「何をしたの?」

「敵を探した。城の中を1人で、夜ごと歩いた。誰にも知らせず、そして見つけた……内通者を」


玄十郎の拳が少しだけ強く握られる。


「長年仕えた家老だった。家族を人質に取られていた。敵国へ情報を流していた。だが、もう後戻りはできないところまで進んでいた」


尊は静かに目を閉じる。


「家老は泣いていた。『許してくれ。家族を守りたかった』…そう言っていた」


玄十郎は少し苦しそうに息を吐く。


「斬れなかった。責めることもできなかった。俺も同じ立場なら……」


その先は言葉にならない。


「だから俺は別の方法を選んだ」


尊は玄十郎を見る。


「その方法が、君の人生を変えた?」

「ああ」


玄十郎は静かに頷く。


「誰も傷付けず。殿だけは必ず生かす方法。その代わり…俺一人が、すべてを背負う方法だった」


庭を吹き抜けた風が、桜の花びらを一枚運んでくる。その花びらは、二人の間へ静かに落ちた。


「三日後の夜、城は炎に包まれた。敵は予定どおり攻めてきた。そして……」


玄十郎はゆっくりと尊を見つめる。


「俺は、裏切り者になった」


尊の表情は変わらない。驚きも疑いもない。ただ静かに、その続きを待っていた。玄十郎はしばらく黙って庭を眺めていた。桜の花びらが舞う隣で、紅葉が風に揺れ、雪が静かに降り積もる。四季が共に息づくその景色は、不思議と心を落ち着かせた。やがて玄十郎は、静かに続きを語り始めた。


「敵が城へ攻め込んできた夜。俺は殿を連れて、城の裏山へ向かった。誰にも知らせずにな。殿は最後まで納得されなかった。『皆を置いて逃げるわけにはいかぬ。城には家臣たちがおる。民もおる。』そう言われた。だから俺は初めて、殿に命令した」


玄十郎は少しだけ笑う。


「家臣が主君へ命令など、本来なら打ち首ものだ」


尊も小さく笑った。


「何て言ったの?」


玄十郎は遠い日を思い出すように目を閉じる。


「『生きてください。貴方がおられなければ、この国は終わります。だから、生きてください。』と。殿は怒っていた。『玄十郎、お前も来い。皆で生き延びるぞ。』……優しい方だった。だからこそ、俺は頭を下げた。『申し訳ございません。私はここで役目を果たします』そう言って、殿を無理やり逃がした」


相談室に静かな沈黙が流れる。尊は何も言わない。玄十郎は湯飲みへ手を伸ばし、一口だけ茶を飲んだ。


「家老も逃がした。家族を連れて国を出ろ、と。泣きながら土下座していた。『一生、この御恩は忘れません』…忘れてくれて構わなかった。生きてくれれば、それで良かった。そして…」


玄十郎の声が少し低くなる。


「俺は城門へ戻った。敵はもう目前だった。部下が聞いてきた。『団長、殿は?』と。俺は答えた。『逃がした。一緒に戦い抜く約束していたのに、俺が逃した。これより俺は裏切り者だ』」


尊は静かに玄十郎を見つめる。


「部下たちは驚いていた。当然だ。昨日まで忠義を語っていた男が、突然主君を逃がしたと言い出した。俺は続けた。『殿の首を敵へ差し出すつもりはない。文句があるなら、この場で俺を斬れ。……誰も刀を抜かなかった」


玄十郎は少しだけ笑う。


「皆、馬鹿だった。俺を信じてくれた。だから俺は命じた。『ここから先は俺1人で十分だ。お前たちは城下の民を避難させろ。これは命令だ。その時だけは、誰も逆らわなかった」


庭を吹く風が少し強くなる。


「城門を閉めた。敵は何百人いたか、もう覚えていない。朝まで斬り続けた。刀が折れ、槍を拾い、槍が折れ、最後は敵の刀を使った」


玄十郎は自嘲気味に笑う。


「歳を感じた。腕も上がらなくなっていた。それでも、一歩も退かなかった。夜明け頃、ようやく敵は退いた。殿は無事に隣国へ落ち延びたと、後で聞いた。それで十分だった」


尊は静かに尋ねる。


「そのあと、どうなったの?」

「俺は捕まった。城へ残っていた者たちは、皆こう証言した。『玄十郎が殿を裏切った』その方が都合が良かった。敵は納得するし、家臣たちも助かる。殿の居場所も悟られない」


玄十郎は穏やかだった。まるで他人の話をしているように。


「俺は何も弁明しなかった。言えば、すべてが無駄になる。だから黙っていた。最後まで…」


尊は静かに目を伏せる。


「処刑の日」


玄十郎の表情が初めて曇る。


「妻は泣かなかった。椿の手を握って立っていた。『あなた…お疲れ様でした』それだけだった。……強い女だった」


一度、言葉が途切れる。玄十郎は目を閉じ、小さく息を吐いた。


「だが、椿だけは違った。」


相談室の空気が、わずかに揺れる。


「まだ10歳だった。『父上は悪い人じゃない!父上は裏切り者じゃない!お願いだから連れていかないで!』…泣いていた」


玄十郎の拳が震える。


「役人に抱えられても、泣きながら俺へ手を伸ばしていた。俺は、笑ってやることしかできなかった。『椿、泣くな。父は最後まで武士だった』……それが最後だった」


長い沈黙が流れる。尊は何も言わない。玄十郎もまた、それ以上は語らなかった。止まった時計だけが、静かに二人を見守っていた。玄十郎は静かに語り終えた。相談室には、しばらく誰も言葉を発しない。庭では春風が桜を揺らし、その向こうでは雪が静かに降り続いている。尊は湯飲みへ茶を注ぎながら、小さく口を開いた。


「……だから君は、最初に『後悔はない』と言ったんだね」


玄十郎は頷く。


「ああ。俺は、自分で選んだ。殿を守ることも、裏切り者になることも、命を捨てることも。だから、それについて悔いはない」


その声には迷いがなかった。尊は静かに微笑む。


「でも…」


その一言に、玄十郎は顔を上げる。


「君は、1つだけ話していない」

「……」

「椿のことだ」


玄十郎の表情が、初めて大きく揺れた。


「君は処刑台で笑った。最後まで武士として振る舞った。でも、本当は…」


尊は優しく問いかける。


「娘にだけは、真実を知っていてほしかったんじゃない?」


その瞬間だった。玄十郎は目を閉じた。長い沈黙。誰にも見せなかった感情が、静かに胸の奥から溢れてくる。


「……ああ」


掠れた声だった。


「俺は、椿だけには……父は裏切り者ではなかったと。知っていてほしかった」


拳が震える。


「それだけだった。民が知らなくてもいい、歴史に残らなくてもいい。俺は、娘に嫌われたまま死ぬことだけは…少しだけ……辛かった」


相談室は静まり返る。尊は静かに頷いた。


「ようやく、本当の後悔を話してくれたね」


玄十郎は苦笑する。


「武士も、最後まで格好はつけられんものだ」

「十分格好良かったと思うけど」

「そうか?」

「うん」


尊は笑った。


「でも、お父さんとしては少し不器用だったね」


その言葉に、玄十郎も思わず笑った。


「違いない」


二人の笑い声が、静かな相談室に溶けていく。尊はゆっくりと立ち上がった。


「玄十郎、選択肢を渡そう」


玄十郎も立ち上がる。


「また3つか?」

「今回は2つ」


尊は指を2本立てた。


「1つ、このまま輪廻へ進む。すべてを忘れ、新しい人生を歩む」


玄十郎は静かに頷く。


「もう1つは?」


尊は少しだけ悪戯っぽく笑った。


「君の人生へ戻る。ただし、歴史は変えられない」


玄十郎は驚かなかった。


「そうだろうな。殿を救わなければ国は滅ぶ。俺も、その未来は望まない」


尊は続ける。


「でも、1つだけ変えられる」

「……何だ?」

「椿へ、君自身の言葉を届けられる」


玄十郎は目を見開く。


「処刑される未来は変わらない。裏切り者と呼ばれる未来も変わらない。でも娘だけは、父の本当の願いを知ったまま…生きていける」


相談室に静かな風が吹く。玄十郎は目を閉じる。考える時間は、ほとんど必要なかった。


「……頼む。椿へ…父として、一言だけ伝えたい」


尊は満足そうに頷いた。


「受け取った」


ーパン―


尊が静かに手を合わせる。相談室の奥に、白く輝く襖が現れた。その向こうには、玄十郎が生きていた東方の世界が広がっている。


「戻る場所は、処刑の3日前」

「殿を逃がす決意をした夜だ」

「3日しかないよ」

「十分だ」


玄十郎は迷いなく答えた。襖へ向かって歩き出し、ふと足を止める。


「尊」

「何?」

「……ありがとう」

「礼には及ばないよ」


尊は穏やかに笑う。


「僕は、ほんの少し背中を押しただけ。歩くのは、いつだって本人だから」


玄十郎は深く一礼した。今度は武士としてではなく、1人の父親として。そして襖の向こうへ歩いていく。その背中を、尊は静かに見送った。襖が閉じ、相談室には再び静寂が戻る。松平がそっと入ってきた。


「尊様」

「どうしたの?」

「玄十郎様は、今度こそ幸せになれますでしょうか?」


尊は少しだけ庭を眺めた。桜が舞い、雪が降り、夏草が揺れ、紅葉が色づく。


「幸せってね、大きなものじゃない。誰かに想いが届くこと…案外、それだけで人は前を向ける」


松平は静かに微笑んだ。


「素敵ですね」


尊も笑う。


「うん」


そう答えながら、ふと本棚へ目を向ける。1冊の名もない本が、音もなく光を帯びた。尊はその本を手に取り、最初の頁を開く。そこには、今までなかった1行だけが浮かび上がっていた。


ー父上は、私の誇りですー


尊は目を細め、小さく微笑む。


「届いたみたいだね、玄十郎」


誰に聞かせるでもない独り言。名のない本は静かに閉じられ、本棚へ戻される。時計の針は、今日も動かない。けれど誰かの人生だけは、確かに新しい時を刻み始めていた。



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