表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/34

復讐を捨てれなかった騎士

【備忘録】


人は憎しみだけでは生きていけない。

けれど、大切なものを失った日だけは、憎しみだけが心を支えてくれることがある。


ー尊ー


今日も、この場所に朝は来ない。空はいつも穏やかで、風は季節の香りを運び、庭では春夏秋冬の花々が静かに揺れている。それでも、この相談所に「朝」という概念は存在しない。時計が一つも動いていないからだ。執務室の壁一面に並ぶ無数の時計。振り子時計、懐中時計、柱時計、砂時計。どれも違う時刻を指したまま、永遠に止まっている。私は湯呑みを手に、その時計たちを眺めていた。止まった針を見るたび、不思議な感覚になる。


「時間とは、何だったのだろう」


思わず口から零れた独り言に、自分でも小さく笑ってしまう。人だった頃の私は、時間に追われていたのだろうか。それとも、大切な誰かとの時間を惜しんでいたのだろうか。思い出そうとしても、霞がかかったように何も浮かばない。覚えているのは、人として生きていたこと。そして、誰かを―…。


「尊様」


障子の向こうから聞こえた声に、思考が途切れる。


「どうぞ」


障子が静かに開き、松平が一礼した。


「来訪者がお目覚めになりました」

「ありがとう」


私は湯呑みを机へ置き、立ち上がる。机の横にある本棚へ目を向ける。そこには、名前のない本が静かに並んでいた。誰が書いたのかも分からない。いつ増えるのかも分からない。けれど相談者が前へ進むたび、1冊、また1冊と増えていく。私は一番新しい本へ手を伸ばしかけ、やめた。


「…今は、まだ読まない」


答えは本人の人生の中にある。それを私が先に知る必要はない。四季が共存する庭を歩く。春の桜が舞う隣では向日葵が太陽へ向かって咲き、紅葉が色づく先には静かな雪景色が広がる。季節は混ざり合っているのに、不思議と違和感はない。相談者によって、この景色も少しずつ変わる。今日は風が少し冷たい。私は立ち止まり、一輪の白い花を見つめた。


「珍しい」


昨日までは咲いていなかった花だ。


「相談者の心を映しているのでしょうか」


後ろから松平が静かに言う。私は花を見つめたまま頷いた。


「かもしれないね」


その花は、小さな白い花弁を風に揺らしながら、どこか儚げに咲いていた。来訪者の部屋の扉を開く。部屋の空気が、今までとはまるで違った。石壁、武具を掛けるための木製の棚、暖炉、長机、簡素な寝台、豪華さはない。必要最低限の物しか置かれていない部屋だった。部屋の中央に、一人の男が椅子へ腰掛けたまま俯いている。全身を覆う鈍色の鎧、深い傷跡が刻まれた両手、短く切り揃えられた黒髪、無精髭。そして、その右手には一本の剣が握られていた。死んでもなお、離さなかった剣。私はその姿を静かに見つめる。男はゆっくり顔を上げた。鋭い灰色の瞳…何人もの命を見送ってきた者だけが宿す眼差しだった。


「……ここは」


低く掠れた声。私は穏やかに答える。


「異世界相談所」


男は眉をひそめる。


「聞いたことがない」

「そうだろうね。生きている間に来る場所じゃないから。」


その一言で、男は静かに目を閉じた。


「そうか。俺は……死んだのか」

「うん」


私は嘘をつかない。男は数秒だけ黙っていた。驚きも、怒りも、悲しみもない。ただ、小さく息を吐く。


「なら、それでいい」


そう呟くと、椅子から立ち上がった。


「帰る」


そのまま扉へ向かって歩き出す。松平が慌てて一歩前へ出ようとするが、私は手で制した。男は扉へ手を掛ける。開かない。力を込めるが、それでも開かない。


「……開かんな」

「開かないよ」


私は静かに言う。


「君はまだ、帰る場所を決めていない」


男は振り返る。


「帰る場所?」

「ここでは皆に3つの道を選んでもらう」

「少し休む。輪廻へ進む。あるいは―…」


私は男を真っ直ぐ見つめた。


「人生をやり直す」


男の瞳が僅かに揺れる。だが、その揺れはすぐに消えた。


「必要ない。俺の人生は終わった。やるべきことも終わった」


その声には、生気がなかった。まるで、目的だけで生きてきた人間が、その目的を失ってしまったようだった。私は相談室へ続く襖を開く。今日の相談室は、石造りの騎士団長室へ姿を変えている。暖炉の火、木製の机、壁には地図、武器棚、窓から差し込む柔らかな光。


「少しだけ付き合ってくれないかな」


男は黙ったまま立っている。


「紅茶でも飲みながら」


その言葉に、男は少しだけ口元を歪めた。


「酒はないのか」


私は笑う。


「人でいう、勤務中だからね」


その返答が意外だったのか。男はほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「……変な奴だ」

「よく言われる」


私は先に椅子へ座る。男も諦めたように向かいへ腰を下ろした。松平が静かに紅茶を置いていく。湯気が二人の間をゆっくりと漂う。しばらく沈黙が続いた。やがて私はカップを置き、静かに尋ねる。


「名前を聞いてもいい?」


男は紅茶へ視線を落としたまま答える。


「ガイアス。騎士だった」

「よろしく、ガイアス」


私は微笑む。


「君の後悔を聞かせてほしい」


その言葉に、ガイアスの握るカップが小さく震えた。彼は長い沈黙のあと、低い声で呟く。


「……後悔か」


その灰色の瞳に、20年以上消えることのなかった炎が宿る。


「俺は、復讐を終えられなかった」


その言葉とともに、騎士ガイアスの人生が静かに幕を開けるのだった。相談室に静かな時間が流れる。暖炉では薪が静かに弾け、紅茶の湯気がゆっくりと立ち上っていた。ガイアスはカップに口をつけることなく、その琥珀色の液面を見つめている。


「復讐を終えられなかった……ですか」


私が静かに問い返すと、ガイアスは短く笑った。


「違うな。終えられなかったというより……」


彼は自嘲するように息を吐く。


「終わらせ方を知らなかった」


その一言には、長い年月が積み重なっていた。私は急かさず、ただ耳を傾ける。暖炉の火が静かに揺れている。ガイアスは紅茶には手を付けず、炎だけを見つめていた。重たい沈黙が続く。その沈黙を破ったのは、ガイアスだった。


「……俺の故郷は、小さな村だった」


低く落ち着いた声。感情を押し殺したような話し方だった。


「王都から何日も離れた場所にある、どこにでもある農村だ。畑しかない。店も一軒あるかどうか。裕福じゃなかったが、不自由でもなかった」


そこで一度言葉が止まる。ほんの少しだけ、口元が緩んだ。


「父さんは無口だった。朝から晩まで畑ばかり耕してた。母さんはよく笑う人だった。笑いながら俺を叱って、笑いながら飯を作って…家の中はいつも明るかった」


尊は何も言わない。ただ静かに耳を傾ける。


「妹もいた。名前はリリア。俺より8つ下だった」


ガイアスの目が少しだけ細くなる。


「いつも俺の後ろを付いて歩いてた。『お兄ちゃん!待って!』って。足が遅いくせに、どこへでも付いてくる。剣の真似事をしてれば木の枝を拾ってきて振り回す。転んでは泣いて、また走ってきて…」


思い出したように、小さく笑った。


「騎士様ごっこが好きだったな。『お兄ちゃん、本当に騎士様になるの?じゃあリリアを守ってね!』そう言われた。だから俺も答えた。『任せろ。お前は俺が守る』と」


ガイアスは拳を握る。その拳には、幾重もの古傷が刻まれていた。


「子どもの約束だった。……だが俺は、本気だった」


相談室に静かな時間が流れる。暖炉の薪が、小さく音を立てた。


「全部壊れたのは、その冬だった」


ガイアスの声色が変わる。冷たく、感情を閉ざした声になる。


「夜中だった。犬が吠え始めた。その次に聞こえたのは悲鳴だ。『盗賊だ!!』の叫びに、村中が騒ぎになった」


「父さんは壁に掛けてあった剣を掴んだ。『ガイアス!母さんとリリアを連れて逃げろ!』それが父さんの最後の言葉だった」


ガイアスはゆっくり息を吐く。


「俺は母さんとリリアの手を引いて裏口から逃げた。森まで行けば助かる。そう思ってた。……甘かった」


その一言だけで十分だった。


「裏にも盗賊がいた。酒臭い連中だった。笑ってたよ。人を殺すことが遊びみたいにな」


松平が思わず視線を落とす。ガイアスは続ける。


「母さんが前に出た。『お願いです。子どもだけは助けてください』って言ったが、盗賊は笑った。次の瞬間には、母さんは倒れてた」


部屋が静まり返る。


「俺はリリアを連れて走った。走るしかなかった。振り返ったら終わりだと思った。あと少しで森だった」


ガイアスは目を閉じる。


「矢が飛んできた、1本。それが…リリアの背中に刺さった」


その声だけが震えた。


「倒れた妹を抱き起こした。『立て。リリア。もう少しだ』何度も呼んだ…何度も……」


長い沈黙。ガイアスは拳を強く握る。


「リリアは笑った。『ありがとう。守ろうとしてくれて。』それだけ言って…動かなくなった」


相談室には暖炉の音だけが響く。ガイアスは炎を見つめたまま、小さく呟いた。


「俺は何も守れなかった。父さんも、母さんも、リリアも。約束なんて、1つも守れなかった」


尊は静かに問いかける。


「それから?」

「朝まで村を歩いた。誰も生きてなかった。俺一人だけだった。家族を埋めた。墓なんて立派なもんじゃないが、木を削って立てただけの墓を作った。その前で誓った」


ガイアスの瞳に、再び炎が宿る。


「必ず見つける。家族を殺した奴らを、一人残らずこの手で斬る。その日からだ。俺の人生は終わった。残ったのは復讐だけだった」


そう言って、ようやく目の前の紅茶へ手を伸ばす。すっかり冷めきった紅茶を一口飲み、苦く笑った。


「…つまらない話だったな」


尊は静かに首を横へ振る。


「いや。君が20年以上、1人で抱えてきた人生だ。つまらないはずがない」


ガイアスは少しだけ驚いたような顔をした。だが、何も言わない。静かな沈黙が二人の間に流れる。やがて尊は湯呑みに新しい紅茶を注ぎながら、穏やかに口を開いた。


「その復讐のために、君は騎士になったんだね」


ガイアスはゆっくりとうなずく。


「ああ。復讐するためだけに剣を握った。それ以外、生きる理由なんてなかった。」


その言葉とともに、騎士ガイアスの長い復讐の人生が、さらに深く語られていく。


「復讐するためだけに剣を握った。」


ガイアスは静かにそう言うと、新しく淹れられた紅茶を一口飲んだ。今度は温かい。少しだけ表情が和らぐ。


「……うまいな」

「松ちゃんの紅茶だからね」

「松ちゃん?」

「受付をしている松平」


少し離れた場所で焼き菓子を並べていた松平が困ったように笑う。


「尊様、その呼び方はやめてくださいと何度も申し上げています」

「じゃあ松平さん?」

「それも少し違います」

「難しいなぁ」


そんな二人のやり取りを見て、ガイアスは思わず鼻で笑った。


「神様らしくないな」

「よく言われる」


尊は焼き菓子を一つ摘まみながら笑う。相談室に少しだけ柔らかな空気が流れた。ガイアスはその空気に戸惑うように目を細める。


「……俺は村を出て王都へ向かった。20歳だった。身寄りも金もなかった。食うために荷運びをして、夜は教会の軒下で寝た。毎日腹が減ってた。それでも故郷へ戻ろうとは思わなかった。戻っても誰もいなかったからな」


尊は静かに頷く。ガイアスは続けた。


「ある日、王都の騎士団が盗賊を捕らえているのを見た。誰よりも強かった。誰よりも速かった。俺は思った。『あの力があれば、家族を守れたかもしれない』だから騎士を目指した。復讐するには力が必要だった。剣も、知識も、地位も、全部必要だった。そのためなら何でもやった」


暖炉の火が静かに揺れる。


「朝から晩まで鍛えた。人の倍じゃ足りない。3倍やった。寝る時間も惜しかった。同期が遊んでいる間も木剣を振った。皆が休んでいても走り続けた。身体中が痛くても止まらなかった」


ガイアスは自嘲気味に笑う。


「止まったら、家族の顔が浮かぶんだ。だから止まれなかった。」


松平は静かに目を伏せた。尊は何も言わない。ただ、ガイアスの言葉を受け止める。


「気付けば俺は同期の中で一番強くなっていた。実戦でも結果を出した。盗賊討伐。、魔物討伐、国境警備。命令なら何でもやった。生きて帰ることだけは得意だった」


少しだけ苦笑する。


「死ぬわけにはいかなかったからな。復讐が終わるまでは…」


尊は湯呑みを置き、静かに尋ねる。


「仲間は?」


ガイアスは少しだけ黙る。


「いた。同期も、部下も。皆、いい奴だった。だが……」


その一言で空気が変わる。


「近付かなかった。」

「どうして?」

「失うからだ」


ガイアスは迷いなく答えた。


「家族で十分だった。もう二度と、大切なものを失いたくなかった。だから誰とも深く関わらなかった。名前を覚えるのも最低限。酒にも付き合わない。祝い事にも行かない。誕生日も知らない。そうしていれば、死んでも苦しまなくて済む」


尊は静かに目を閉じる。


「…そう思っていたんだね」

「ああ」


ガイアスは短く答えた。


「だが、部下は勝手だった」


少しだけ困ったように笑う。


「毎朝挨拶してくる。『隊長!今日もよろしくお願いします!』そう言って笑うんだ。俺が無視しても、翌日にはまた笑ってる。しつこい奴らだった」


その言葉とは裏腹に、ガイアスの表情はどこか懐かしそうだった。


「ある新人なんて…『隊長!隊長は怖い顔してますけど、本当は優しいですよね!』なんて、初対面で言われた。意味が分からなかった」


尊が小さく笑う。


「図星だったんじゃない?」

「違う」


即答だった。


「俺は優しくなんかない。ただ…」


少しだけ言葉を探す。


「……部下を死なせないようにはしていた」


その一言を聞いて、尊は静かに微笑んだ。だが、その笑みの意味をガイアスはまだ知らない。守るつもりはないと言いながら。誰よりも部下を守ろうとしていたことを。彼自身だけが、まだ気付いていなかったのだから。暖炉の火が、静かに揺れていた。ガイアスはしばらく炎を見つめたまま、ゆっくり口を開いた。


「気付けば、俺は騎士団長になっていた。望んだわけじゃない。強い奴から死んでいった。残ったら俺だった。ただ、それだけだ」


紅茶を一口飲む。少し冷め始めていた。


「部下は増えた。100人以上いた。皆、俺を隊長だの団長だのと慕ってきた。正直、面倒だった」


尊は小さく笑う。


「でも追い返さなかった」

「ああ。追い返しても翌日には戻ってくる。馬鹿な奴らだった。」


その言葉は呆れたようでいて、どこか誇らしげでもあった。


「ある遠征の帰りだった。魔物の群れと遭遇した。数は俺たちの倍。撤退も考えた。だが、村が近かった。逃げれば村が襲われる。…だから戦った。」


ガイアスの瞳が細くなる。


「部下に命じた。『村人を逃がせ。ここは俺が時間を稼ぐ』と。当然、誰も命令を聞かなかった」


思わず苦笑が漏れる。


「『隊長一人を置いて逃げられるか』だと。本当に馬鹿ばかりだった」


尊は静かに頷いた。その光景が目に浮かぶようだった。


「戦いは勝った。だが……」


その一言で空気が変わる。


「副団長が死んだ」


長い沈黙。


「俺より十歳も若かった。家には妻がいて。生まれたばかりの娘もいた。最後まで笑ってた」


ガイアスは静かに目を閉じる。


「『団長。村は……守れましたね』……それが最後だった」


暖炉の薪が、小さくはぜる。


「俺はその日、初めて泣いた。家族を失った時は泣けなかった。涙なんか出なかった。だが、あいつが死んだ時は違った。止まらなかった。…不思議だった」


尊は何も言わない。ガイアスは続ける。


「俺は関わらないようにしていた。失いたくなかったから。なのに…いつの間にか、あいつらは家族みたいになってた」


少しだけ笑う。寂しそうに。


「気付くのが遅かった。失ってから分かる。俺は昔から何も変わってなかった。」


その言葉を、尊は静かに受け止める。ガイアスの声が再び低くなる。


「それから数年後…ようやく見つけた。村を襲った盗賊どもだ。20年以上探し続けていた。山奥に砦を作っていやがった。もう盗賊じゃない。傭兵崩れになっていた。人数は30人。全員、俺が斬った」


感情はない。ただ事実だけを語る。


「隊長格だけは最後まで生かした。俺の顔を見ても思い出せなかった。『誰だ、お前』…そう聞かれた」


ガイアスは静かに笑う。乾いた笑いだった。


「覚えてもいなかった。俺の家族を殺したことを、俺の村を焼いたことを、全部忘れてた」


ガイアスは拳を握る。


「だから名乗った。『23年前。北の村を焼いた盗賊を覚えてるか』…その瞬間だった。顔を青ざめさせながら『ま、待て…悪かった……金なら…』最後まで聞かなかった。首を落とした」


長い沈黙。相談室には時計があった。けれど針は今日も止まったまま。


「復讐は終わった」


ガイアスはぽつりと言う。


「終わったはずだった。なのに、何も変わらなかった。嬉しくもなかった。達成感もなかった。家族は帰ってこない。村も戻らない。俺だけが生き残ったままだった。」


尊は初めて口を開く。


「その時、何を思った?」


ガイアスは少し考え、小さく笑う。


「分からなかった。20年以上、復讐だけ見て生きてきた。それが終わったら、何も残らなかった」


その一言には、剣士としてではなく、1人の人間としての弱さが滲んでいた。


「だから俺は剣を振り続けた。理由もないまま。ただ、生き方を変えられなかった」


尊は静かに紅茶を口へ運ぶ。そして穏やかに微笑んだ。


「……そうか」


それ以上は何も言わない。まだ、その時ではない。ガイアス自身が、自分の人生の本当の意味に気付くのはて…もう少し先のことだから。相談室は静かだった。暖炉の火が揺れ、湯気の立つ紅茶から優しい香りが漂う。ガイアスは俯いたまま、ぽつりと呟いた。


「……結局、俺の人生は何だったんだろうな」


誰に向けた言葉でもなかった。自分自身への問いだった。20年以上、復讐だけを見て生きてきた。その復讐を果たした今、残ったのは空っぽの自分だけだった。


「俺は、家族を守れなかった。部下も失った。復讐を果たしても何も残らなかった。そんな人生に、意味なんてあったのか」


尊は少しだけ笑った。


「あるよ」


即答だった。ガイアスはゆっくり顔を上げる。


「君は、自分のことしか見ていなかった」

「……何?」

「君はずっと『守れなかった』と言い続けている。でもね…」


尊は備忘録が並ぶ本棚へ視線を向けた。


「君が守った人は、1人や2人じゃない」


ガイアスは眉をひそめる。


「村を守った。街を守った。旅人を守った。部下を守った。国を守った。君は20年以上、誰かを守り続けてきた」

「違う」


ガイアスは首を振る。


「俺は復讐のために…」

「本当に?」


その一言で、言葉が止まる。尊は穏やかな笑みを崩さない。


「君は部下にどう命令した?」

「……村人を逃がせ」

「どうして?」

「守るためだ」

「副団長を失った時、どう思った?」


ガイアスは答えられない。尊は静かに続ける。


「家族を失った少年は、誰にも同じ思いをさせたくなかった。だから剣を振るった。…違うかい?」


相談室に沈黙が落ちる。ガイアスは何も言えなかった。思い返せば、復讐だけでは説明できないことが多すぎた。危険な任務では、必ず自分が前へ出た。新人は最後尾へ下げた。怪我人は背負って帰った。部下が家族の話をすれば、不器用ながら休暇を与えた。村へ寄れば、子どもに剣を教えた。それは復讐とは関係ない。


「……俺は」


ガイアスは拳を見つめる。傷だらけの、大きな手。


「守っていたのか…」

「うん」


尊は優しく頷いた。


「君は復讐だけの人じゃない。最初から最後まで、守る人だった」


その瞬間だった。ガイアスの脳裏に、数え切れない顔が浮かぶ。笑う部下、助けた村人、礼を言う子ども。そして……『お兄ちゃん!』幼い妹、リリア。『リリアを守ってね』と笑う姿が。


「……約束」


ガイアスは小さく呟く。


「守れなかったと思っていた。でも…」


涙は流れなかった。その代わり、長年胸を締め付けていた重石が、少しだけ軽くなった気がした。


「少しは……守れたのか」


尊は微笑む。


「リリアさんはきっと…そんなお兄ちゃんを誇りに思っているよ」


ガイアスは静かに目を閉じた。長い沈黙。それは苦しい沈黙ではなく、穏やかな静けさだった。やがてガイアスは立ち上がる。


「尊」


初めて名前を呼んだ。


「ありがとう」


短い言葉だった。だが、それだけで十分だった。尊も立ち上がる。そして両手を軽く合わせた。


—パンー


乾いた音が相談室に響く。すると、部屋の奥の空間がゆっくり揺らぎ、1枚の古い木の扉が姿を現した。扉の向こうからは、柔らかな光が溢れている。輪廻へ続く扉だった。


「そろそろ帰る…違うな、行ってくる」

「うん」

「次の人生では…」


尊は少し考え、笑った。


「復讐以外の夢も見つかるよ」


ガイアスは鼻で笑う。


「そうだな」


扉の前で立ち止まり、振り返る。


「1つだけ聞いていいか?」

「何?」


「俺は、家族に会えると思うか」


尊は少しだけ空を見上げた。止まったままの時計。四季が同時に息づく庭。名のない本が並ぶ本棚。そのすべてを見渡し、静かに答える。


「輪廻は巡る。約束された再会はない。でも人の縁は、思っているより強い。また巡り会えるかもしれない」


ガイアスは満足そうに笑った。


「それで十分だ」


そう言って、光の中へ歩き出す。その背中は、復讐に囚われた剣士ではなかった。誰かを守り続けた、一人の男の背中だった。扉が静かに閉じる。相談室には再び静寂が戻った。松平がそっと紅茶を片付けながら、小さく呟く。


「今回も、1人救われましたね」


尊はゆっくり首を横に振る。


「違うよ」

「え?」

「僕は何も救っていない」


尊は、ガイアスが座っていた席に残る湯飲みへ視線を落とした。


「答えを見つけたのは、彼自身だ」


そう言って笑う尊の横顔を、松平はどこか寂しそうだと思った。その笑顔は、相談者を見送るたびに少しだけ遠くを見ている。まるで、自分もいつか誰かに見送られる日を待っているように。そのことを、松平はまだ知らない。尊自身もまた…神になることを望んだことなど、一度もなかったことを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ