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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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母になれなかった魔女

【備忘録】


人は、生まれる家族を選ぶことはできない。

けれど…誰かを家族だと想うことは、自分で選べる。


ー尊ー



今日も時計は止まっている。執務室の壁に並ぶ無数の時計は、それぞれ違う時を刻んだまま、1つとして動かない。私は湯呑みに口をつけながら、それらをぼんやり眺めていた。


「尊様」


障子の向こうから、小さく控えめな声が聞こえる。


「どうぞ」


障子が静かに開き、松平が一礼した。


「本日の来訪者がお目覚めになりました」

「ありがとう」


私は湯呑みを机へ置き、ゆっくり立ち上がる。畳を踏むたび、い草の優しい香りが広がる。障子を開けば、四季が共存する庭が静かに迎えてくれる。春の桜が風に舞い、その隣では紫陽花が雨に濡れ、紅葉の奥には雪景色が広がる。時間が止まった場所だからこそ、季節だけは自由に流れている。庭を歩きながら、私は空を見上げた。青空だった。……少なくとも、この相談所では。相談者の世界では、違う空が広がっているのだろう。来訪者が目覚める部屋の前に立つ。今日の扉は木製だった。取っ手には植物を模した細かな彫刻。松平がそっと扉を開ける。部屋へ足を踏み入れた瞬間、甘い薬草の香りが鼻をくすぐった。棚には色とりどりの薬草。乾燥させた花々が天井から吊るされ、窓辺には大小さまざまなガラス瓶が並んでいる。小さな暖炉、揺れる炎、丸い木のテーブル。まるで森の中の小さな家だった。ベッドの上では、1人の女性がゆっくりと目を開く。長い銀色の髪に透き通るような白い肌、深い翡翠色の瞳。年齢は20代ほどに見える。だが、その瞳だけは長い年月を生きた者の静けさを宿していた。女性は静かに起き上がる。まず、自分の両手を見る。次に胸へ手を当てる。そして、ぽつりと呟いた。


「……熱く、ない」


その声は、とても小さかった。炎に焼かれた者だけが漏らせる言葉だった。


「ようこそ」


松平が穏やかに頭を下げる。


「異世界相談所へ」


女性はゆっくりとこちらを見る。警戒よりも、不思議そうな表情だった。


「ここは…天国?」

「違います」


松平は柔らかく微笑む。


「ここは人生を振り返る場所です」

「人生を……」


女性はその言葉を繰り返す。


「私は…もう死んだはずです」

「はい」


松平は否定しない。


「ですが、まだ一つだけ選択肢が残されています」


女性は少し考えたあと、小さく頷いた。


「そうですか」


驚くほど落ち着いていた。泣き叫ぶことも。取り乱すこともない。まるで、自分の最期を受け入れていたように。


「相談役がお待ちしております」

「相談…」


女性は少しだけ困ったように笑う。


「私は相談できるような人間ではありません。魔女ですから」


その言葉に、松平は首を横へ振った。


「尊様は、そのようなことで人を判断なさいません」


女性は初めて少しだけ目を丸くした。


「……優しい方なのですね」

「はい」


松平は迷いなく答えた。


「全ての世界で一番、お優しい方です」


私は相談室でお茶を淹れていた。今日の相談室は、小さな森の家。木の床、暖炉、丸い机、揺り椅子。窓の外には花畑が広がっている。部屋は相談者が最も安心できる場所へ姿を変える。今日は薬草茶がいい。少し甘めにしよう…きっと長い話になる。扉が開くと女性が静かに入ってくる。部屋を見渡し、小さく息を呑んだ。


「……懐かしい」


その一言だけで分かった。この部屋は、彼女が一番幸せだった場所なのだ。


「どうぞ」


私は椅子を勧める。女性はゆっくり腰を下ろした。薬草茶の香りが、二人の間を満たしていく。


「初めまして。尊と言います」


私は微笑む。女性も丁寧に頭を下げた。


「アリアです。よろしくお願いします」


私は薬草茶を一口飲む。ほんのり甘い、優しい味だ。


「このお茶…」


アリアが驚いたように目を見開く。


「私が昔、よく淹れていた味です」

「そう?」


私は首を傾げながら笑う。


「君が一番安心できる味を、この部屋が選んだみたいだ」


アリアは静かに湯気を見つめる。その瞳は、どこか寂しそうだった。


「……不思議ですね。こんなに安心する場所は、何百年ぶりでしょう」


私はその言葉を聞きながら、小さく頷いた。


「アリア」

「はい」

「一つだけ聞いてもいいかな?」


彼女は真っ直ぐ私を見る。私は穏やかに微笑んだ。


「君はどうして、自分を魔女だなんて言ったの?」


アリアは一瞬だけ驚いた表情を浮かべる。やがて、自嘲するように小さく笑った。


「皆が、そう呼んだからです。私は人ではなく、災厄の魔女だと」


その言葉を口にした瞬間。薬草茶の湯気が、ふわりと揺れた。私は静かにカップを置く。


「……そう、じゃあ今日は君自身の言葉で、君の人生を聞かせてほしい」


アリアは少しだけ目を伏せる。長い沈黙。暖炉の薪が、小さく弾ける。


ーパチッ—


その音を合図にするように、彼女はゆっくりと口を開いた。


「私は…300年前に森で、一人暮らしを始めました。」


その静かな告白とともに、一人の魔女の長い人生が幕を開けるのだった。


「私は、生まれた時から魔女だったわけではありません」


アリアは薬草茶の湯気を見つめながら、静かに語り始めた。その声には、恨みも怒りもない。ただ、長い年月を経た者だけが持つ穏やかさがあった。


「小さな村で生まれました。父は木こりで、母は薬草に詳しい人でした。森へ入って薬草を摘み、病気の人に薬を届ける…そんな暮らしをしていました」


私は黙って耳を傾ける。アリアは少しだけ微笑んだ。


「母はよく言っていました。『薬は人を治すためにあるの。でも、一番効く薬は笑顔なのよ』…私はその言葉が好きでした」


その笑顔は、一瞬だけ幼い少女へ戻ったようだった。


「10歳の頃には、薬草の名前を全部覚えました。15歳になる頃には、1人でも薬が作れるようになって。18歳には、母より上手だと言われるようになりました。…嬉しかったです。もっとたくさんの人を助けたい。ただ、それだけを考えていました」


アリアは懐かしそうに笑う。その笑顔を見ながら、私は心の中で思う。…だからこそ、辛かったんだね。


「でも……」


その一言で、空気が少し変わる。


「ある年の冬、原因の分からない病気が流行りました」


アリアは静かに目を伏せる。


「高熱が続き、身体中に赤い斑点が現れ、薬も効かない。村中が、その病気に苦しみました。私は毎日薬を作りました。眠る時間も惜しんで、母と一緒に。父も村中を走り回っていました」


彼女は自分の手を見つめる。


「……でも、助けられなかった」


その言葉は、とても静かだった。


「最初に母が倒れました。次に父。そして……」


アリアは息を呑む。


「村のみんなも」


暖炉の火が、小さく揺れる。私は何も言わない。今は彼女自身が過去と向き合う時間だから。


「私は、一人生き残りました。どうして私だけ助かったのか、誰にも分かりませんでした。病気にもならず、最後まで元気だった」


アリアは苦く笑う。そして彼女は少しだけ肩をすくめる。


「人は理由が分からないことを嫌います。だから、私を疑いました。『あの娘が病を呼んだ。魔物と契約したんだ。だから一人だけ生きている』そんな噂が、あっという間に広がりました。最初は違うと言いました。信じてもらえると思っていました。でも……誰も聞いてくれなかった」


アリアは遠くを見る。


「石を投げられました。家には火をつけられました。市場へ行けば、誰も私に近づきません。子どもたちは私を見ると泣きました。その頃から……魔女と、そう呼ばれるようになりました」


相談室に静かな沈黙が流れる。私はカップを手に取る。薬草茶は少し冷めていた。


「…悲しかった?」


その問いに、アリアは少し考える。そして、小さく首を横へ振った。


「悲しかったのは最初だけです。そのうち仕方ないと思うようになりました。人は、知らないものが怖いのです。私も逆の立場なら、同じだったかもしれません」


私は少しだけ驚いた。恨んでいない。300年生きた魔女は、人を憎むことを選ばなかった。


「だから村を出ました。誰もいない森へ…薬草なら、森の方がたくさんありますから。」


アリアは優しく笑う。


「森は静かでした。鳥が歌って、鹿が歩いて、季節ごとに花が咲いて、誰も私を怖がらない。……そんな森が、私の家になりました」


私は窓の外を見る。四季が共存する庭。春の花の上を、一羽の白い鳥が羽ばたいていく。


「1人は寂しくなかった?」


アリアは少しだけ笑う。


「最初は少し寂しさを感じました。でも慣れてしまえば、それが普通になります。誰とも話さない毎日、誰にも必要とされない毎日、それでも生きていけました」


その言葉に、私は静かに目を閉じる。…違う。本当は、彼女はずっと誰かを助けたかった。誰かに必要とされたかった。そう思いながらも、それを口にしなかっただけだ。


「そんな生活が、100年以上続きました」


アリアは穏やかな表情で語る。


「季節が巡って、薬草を育てて…時々、迷った旅人を助けて、誰にも名前を聞かれないまま別れる。それが私の日常でした」


そして彼女は少しだけ目を細める。その瞳に、今までとは違う優しい光が宿る。


「……あの日までは」


私は自然と微笑んだ。


「誰かに出会ったんだね」


アリアはゆっくり頷く。その頷きは、300年の人生で一番温かな記憶を思い出しているようだった。


「吹雪の夜でした。森の入口で小さな泣き声が聞こえたんです」


薬草茶から立ちのぼる湯気が、ふわりと揺れる。アリアは薬草茶を両手で包み込みながら、静かに語り始めた。



「吹雪の夜でした。森の中は真っ白で、月明かりさえ雪に飲み込まれていました。そんな夜に、小さな泣き声が聞こえたんです」


相談室は静まり返っていた。暖炉の火が揺れる音だけが、2人の間を満たしている。


「最初は動物だと思いました。でも違いました。何度聞いても赤ちゃんの泣き声でした」


私は黙って耳を傾ける。アリアの表情は、少しずつ柔らかくなっていく。


「森の入口まで走りました。雪は膝まで積もっていて、吹雪で前も見えなくて。それでも…放っておけませんでした。昔から、お節介だったんです」


彼女は少しだけ笑う。


「倒れた荷馬車がありました。護衛も、御者も、誰も動きません。みんな、もう……」


その先は言葉にしなかった。言わなくても伝わる。


「荷台の下から小さな籠が見えました」


アリアの瞳に、温かな光が宿る。


「毛布に包まれた赤ちゃんでした。まだ1歳にもなっていないくらいの。寒さで身体は冷え切っていて、泣く力さえ残っていませんでした」


彼女は震える両手を思い出すように、自分の手を見つめる。


「急いで抱き上げました。小さくて、軽くて、壊れてしまいそうで、すごく怖かった」


私は静かに尋ねる。


「でも…助かったんだね?」


アリアは優しく頷く。


「暖炉の前で身体を温めて、薬草から作った栄養湯を少しずつ飲ませて、朝になる頃には……小さく笑ってくれました」


その笑顔を思い出したのだろう。アリアの頬も自然と緩んでいた。


「籠の中に、一枚だけ紙が入っていました。『ノア』それだけ。名前だけが書かれていて、親の名前も、行き先も、何もありませんでした。だから……」


アリアは穏やかに笑う。


「私はその子をノアと呼ぶことにしました。最初は…困りました。赤ちゃんなんて育てたことがありません。夜中に泣けば何が原因か分からない。熱を出せば慌て、転べば私まで泣きそうになる」


アリアは照れくさそうに笑う。


「薬草なら何でも分かるのに、子育ては、何一つ分かりませんでした。」


私は小さく笑う。


「それが普通だよ」

「……そうでしょうか?」

「うん。最初から上手なお母さんなんて、いないよ」


その言葉にアリアは少しだけ驚いた顔をした。


「お母さん……」


その言葉を、まるで初めて聞いたように繰り返す。私は何も付け加えなかった。


「…ノアはよく笑う子でした。森の鳥を見て笑って、鹿を追いかけて笑って、私が薬を失敗すると笑って、毎日笑っていました」


アリアも笑う。その笑顔は、今までで一番自然だった。


「私も…気付けば、一緒に笑っていました。森が賑やかになったんです。たった二人なのに。毎日が忙しくて、毎日が楽しくて、毎日が、あっという間でした。……ある日、ノアが転びました。膝を擦りむいて、大泣きしたんです。私は急いで薬を塗りました。でも薬より先に…抱きしめてあげればよかったんですよね」


アリアは思い出し笑いを浮かべる。私は穏やかに頷く。


「ノアは何て言ったの?」


アリアは少し考えてから笑った。


「『もう痛くない!薬のおかげじゃない!抱きしめてもらえたから』って。5歳になった頃には、一緒に薬草を摘みに行きました。これは熱に効く葉っぱ、これは傷薬、これは食べると苦いから駄目、全部一緒に覚えました。ノアは賢い子でした。何でもすぐ覚えて、私より器用なくらい」


その声には、誇らしさが滲んでいる。アリアは目を細める。


「でも、料理だけは苦手でした。塩を入れ忘れたり、焦がしたり、鍋をひっくり返したり。そのたびに、二人で大笑いしました」


私は静かに薬草茶を飲む。目の前にいるのは、誰よりも優しい女性だった。それなのに彼女はまだ、自分を『母』とは思っていない。


「アリア」

「はい」

「その頃が、一番幸せだった?」


その問いに。彼女は迷わず頷いた。


「はい。300年生きてきて、一番幸せでした」


笑顔のアリアは、本当に美しかった。だからこそ、この先に待つ別れが、あまりにも残酷だった。私はそっと湯呑みを置く。窓の外では、桜の花びらが風に舞っている。その一枚が地面へ落ちるのを見つめながら、アリアは静かに続けた。


「でも、幸せな時間は長くは続きませんでした」


彼女の翡翠色の瞳が、ゆっくりと曇っていく。相談室の暖かな空気が、少しだけ冷えたように感じられた。


「ノアは、本当にあっという間に大きくなりました」


アリアは懐かしそうに微笑んだ。


「気がつけば、私よりも背が高くなっていて、薪を割るのも、畑を耕すのも、水汲みも、全部自分からやってくれるようになりました」


相談室には穏やかな空気が流れている。暖炉の炎が静かに揺れ、薬草茶の香りが2人を包む。


「ある朝のことです。朝食を食べ終えたノアが、少し真剣な顔で私を見て『母さん』と言ったんです」


その一言で、アリアは少し照れたように笑う。


「ノアは、いつからか私を『母さん』と呼ぶようになっていました。私は何度も『違うわ、私は母親じゃない』と言ったのですが……『俺には母さんしかいないよ』…そう返されると、何も言えなくなってしまって」


アリアは目を伏せた。


「嬉しかったのだと思います。でも、その資格は私にはないと…どこかで思っていました」


私は何も言わず、彼女の言葉を受け止める。


「ノアが突然『街へ行ってみたいんだ。』と言い、少し驚きました。森しか知らずに育った子です。外の世界に憧れるのは当然でした。『もっとたくさんの人を助けたい。母さんに教えてもらった薬を、もっと広めたい。病気で苦しむ人を助けたいんだ!』その言葉を聞いたとき、この子は本当に優しい子に育ってくれたんだと……胸がいっぱいになりました。」


アリアは小さく笑う。


「だから私は反対しませんでした。『行っておいで。でも、疲れたら帰っておいで。ここは、いつでもあなたの家だから。』と」


その言葉を口にした瞬間、アリアは少しだけ目を閉じた。その時を思い出すように。


「ノアは笑っていました。『うん。ただいまって帰ってくる』その笑顔が、最後に見た笑顔になりました」


相談室に静かな沈黙が落ちる。私はそっと薬草茶を口に運んだ。少しだけ苦味が増している気がした。


「ノアが街へ行ってから、一週間ほど経った頃でした。森へ…一人の旅人が迷い込んできました。その旅人が言ったんです。『助けてくれてありがとうございます。そういえば王都で、魔女に育てられた青年が捕まったそうですよ』と」


アリアの表情から、笑みが消える。


「その瞬間、嫌な予感がしました。旅人が『たしか名前は……ノアって言っていたな』…その名を聞いた途端、私は薬籠を持って飛び出していました。森を走って、山を越えて、川を渡って、何日も眠らず、王都まで」


彼女は自分の胸元をぎゅっと握る。


「間に合って、お願いだから、間に合って。そのことだけを考えていました。王都は、いつもとおり人で溢れていました。でも、誰も私を歓迎しませんでした。『魔女だ!』『災厄の魔女が来たぞ!』『捕まえろ!』街中に、その声が響きました」


アリアは苦笑する。


「300年前と同じでした。私を見た瞬間に魔女だと分かる人が、まだ王都には沢山いたんです。不思議ですよね」


アリアは力無く笑う。その笑顔が、あまりにも切ない。


「私は牢へ向かいました。そこで、ノアと再会しました」


鉄格子越しに見た息子は、傷だらけだった。それでもノアは笑っていた事を思い出して泣きたくなる。


「『母さん…来ちゃったの?』その一言で、私は泣いてしまいました。『ごめんなさい。私のせいで……』、その気持ちしか浮かびませんでした。でもノアは首を振りながら『違うよ。俺は後悔してない。母さんが育ててくれたから俺は、人を助けたいって思える人間になれた。だから、ありがとう。』と私に笑うんです」


アリアは震える手で湯呑みを包み込む。


「私は、ノアを助けたくて。助けるためなら、何でもするつもりでした。でも…」


彼女はゆっくりと顔を上げる。翡翠色の瞳には、炎が映っているようだった。


「王は言いました。『魔女を処刑する。お前が死ねば、この青年だけは助けてやろう』と」


相談室の暖炉が、小さく音を立てる。


ーパチッ—


私は静かに目を閉じた。その続きを、もう知っている。それでも彼女自身の口から語られるまで、私は待つ。アリアは一度だけ深く息を吸い、静かに言った。


「私は、迷いませんでした」


その一言が、彼女のすべてを物語っていた。アリアは静かにそう言った。


「ノアが助かるなら、それでよかったんです。私は王の前で膝をついて『その子に罪はありません。育てたのは私です。罰するなら、私だけにしてください。』と言うと、王は満足そうに頷いて『魔女アリア。火刑に処す』と宣告しました」


その宣告に、アリアは静かに頭を下げた。恐怖はなかった。ただ一つだけ、心残りがあった。牢にむかうと、牢の前でノアは泣いていた。鉄格子を握りしめ、声を枯らしながら叫ぶ。


「『母さん……嫌だ!俺が代わりになる!だから母さんは逃げて!』私はは鉄格子越しに、そっとノアの頬へ触れました。泣かないで欲しかった。『嫌だ……。』と泣いていました。あなたは、生きなさい。そんな思いを込めて、ノアの頬を撫で続けました。『母さんがいない世界なんて嫌だ!』というノアに、『生きて。あなたは、人を助けられる人になった。それだけで十分。』


ノアは首を振り続けた。涙が止まらない。アリアも笑っていた…涙を流しながら。


「ありがとう、私の子になってくれて…嗚咽を漏らすノアに気持ちを伝えていました。少しでもノアに、私が幸せだったと分かってほしくて。『俺は……俺は、母さんの子で幸せだった!』…その一言が、わたしの胸に深く刻まれました」


処刑の日。王都の広場には大勢の人々が集まっていた。


「魔女だ」

「災厄の元凶だ」


誰もが石を投げ、罵声を浴びせる。アリアは何も言わなかった。縄で縛られ、薪の上に立たされる。視線はただ1つ、ノアだけを探していた。群衆の中で、兵士に押さえつけられながら必死に叫ぶ青年が見える。


『母さん!!』


その声に、アリアは微笑んだ。


「笑って」


小さく呟く。


「最後くらい、笑っていて。ノアの笑う姿、大好きよ」


火が放たれる。炎が薪を包み込む。熱が身体を焼いていく。それでも、アリアは最後までノアだけを見つめていた。


ーありがとうー


声にはならなかった。それでも、その唇は確かにそう動いていた。


「……熱く、なかったんです」


相談室で、アリアはぽつりと呟いた。


「最後は、不思議と。ただ、あの子が泣いていることだけが辛かった」


暖炉の火が静かに揺れる。私は黙って彼女の言葉を待つ。やがてアリアは、小さく笑った。


「変ですよね。300年も生きたのに。最後に思い出すのは、あの子の笑顔ばかり。」


私は湯呑みを置いた。


「アリア」

「はい」

「1つだけ聞いてもいい?」


彼女は頷く。私は静かに問いかけた。


「ノアは、君のことを何て呼んでいた?」


その瞬間。アリアは息を呑んだ。


「……」


答えは分かっている。それなのに、なかなか口にできない。


「母さん……」


かすれた声が漏れる。


「ずっと…母さんって」


その一言とともに、堰を切ったように涙が溢れた。


「私は……私は、本当に……母親だったのでしょうか…?」


私は穏やかに微笑んだ。


「違うよ」


アリアは顔を上げる。


「“だった”じゃない。君は最初から最後まで、お母さんだった」

「でも……私は産んでいません。血も繋がっていません」


私は首を横に振る。


「血は家族になる理由の一つでしかない。毎日ご飯を作って、怪我をすれば抱きしめて、眠る前におやすみと言って、帰ってきたら、おかえりと言う」


私は優しく笑う。


「それを親って言うんだ」


アリアは声を上げて泣いた。300年間、一度も流せなかった涙だった。泣き止むまで、長い時間が過ぎた。やがてアリアは顔を上げる。


「……尊様」

「うん」

「もし…もう一度だけ、あの日へ戻れるなら…私は……」


涙を拭きながら微笑む。


「もっと抱きしめたい。もっと笑いたい。もっと……大好きだって伝えたい」


私は静かに立ち上がる。両手を合わせる。


ーパン―


乾いた音が相談室に響く。止まった空間が、ゆっくりと揺らぐ。暖炉の向こうに、一枚の扉が現れた。輪廻へ続く扉ではない。過去へ繋がる扉。


「君の答えは決まったね」


アリアは迷わず頷いた。


「はい。私は、もう一度…母になります」


私は扉を開く。その向こうには、吹雪の夜。小さな泣き声が聞こえる。アリアは振り返り、深く頭を下げた。


「尊様、ありがとうございました」

「こちらこそ」


私は笑う。


「いってらっしゃい」


アリアも笑った。


「行ってきます」


そして、扉の向こうへ駆け出していく。部屋は静けさを取り戻した。松平が温かい薬草茶を淹れ直してくれる。


「尊様」

「なに?」

「アリア様は、今度こそ幸せになれるでしょうか?」


私は湯気の向こうに目を細めた。


「きっとね…今度は、ちゃんと『大好き』って伝えられるから」


松平も微笑む。その時だった。執務室にある、名前のない1冊の本がひとりでに開く。誰も触れていない。白紙だった本に、黒い文字がゆっくりと浮かび上がる。


『母になれなかった魔女』


その下に、新たな一文が刻まれた。


ー家族とは、共に過ごした時間が紡ぐ奇跡であるー


私は静かにその文字を見つめる。


「……また1冊、増えたね」


そう呟いて本を閉じる。その横顔は穏やかだった。けれど、どこか遠くを見つめているようでもあった。私には思い出せない。誰かに「おかえり」と言われた記憶も。誰かに「いってきます」と笑った記憶も。それでも、不思議と胸が温かかった。いつか、私にも思い出せる日が来るのだろうか。止まったままの時計は、今日も静かに時を待ち続けていた。




アリアの過去、視点の切り替えがうまく文章にできていない気がします。近々、修正します。

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