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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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3/43

英雄になりたかった青年

【備忘録】


剣は人を守るためにある。

けれど、その剣を握る者の心まで守れるとは限らない。


ー尊ー




時計は、今日も止まったままだった。受付の壁に並ぶ大小さまざまな時計。柱時計、懐中時計、砂時計、振り子時計。どれも針は違う時刻を指したまま、1つとして動いていない。この場所に『時間』は存在しない。だから時計は必要ない。それでも私は時計を飾っている。時間を忘れてしまった者ほど、時間というものを大切に思うからだ。


「尊様」


受付から松平が静かに頭を下げる。


「次のお客様がお目覚めになりました」


私は湯呑みを机へ置いた。


「ありがとう」


障子を開けると、四季の庭を風が渡る。春の桜が舞い、夏の青葉が揺れ、秋の紅葉が色づき、冬の椿が静かに咲く。その景色を横目に、来訪者が眠る部屋へ向かう。今日の部屋は質素だった。石造りの壁、簡素な木製の机、鎧を掛けるための台、剣を立てるための棚。軍人の宿舎を思わせる部屋だった。ベッドの上では、1人の青年がゆっくりと瞼を開く。金色に近い栗色の髪、日に焼けた肌、右頬には古い傷跡。そして、幾度となく剣を握ってきた者だけが持つ、硬く節くれだった手。青年は勢いよく身を起こした。反射的に腰へ手を伸ばすが剣がない。その瞬間、全身へ緊張が走る。


「……ここは?」


松平が一歩前へ出る。


「ようこそ異世界相談所へ」


青年は警戒を解かない。部屋全体を見渡し、逃げ道まで確認している。長年戦場で生きてきた癖なのだろう。


「捕虜では……ないようだな」

「はい」

「私は松平と申します。相談所の受付兼案内役です。」


青年はゆっくり立ち上がる。鎧は綺麗なまま、血も傷も消えている。それでも彼は自分の胸へ触れた。


「……刺し傷がない」


最後の記憶。王城、祝宴、酒、笑顔。そして、背中へ突き立てられた短剣。


「なるほど、俺は死んだのか」


青年は静かに笑った。驚く様子はなかった。泣き叫ぶこともない。ただ事実を受け入れるように頷く。松平はそんな青年を見つめながら言う。


「はい。ですが、まだ終わりではありません」

「終わりじゃない?」

「相談所の所長がお待ちです」


青年は小さく肩を竦めた。


「相談なんて柄じゃない。俺の人生に悔いはない」


その言葉に、松平は微笑むだけだった。


「皆様、最初はそうおっしゃいます」


青年は苦笑する。


「そうか。なら一度くらい会ってみるか」







私は相談室で急須へお湯を注いでいた。今日は座布団ではない。革張りのソファ、大きな暖炉、壁には古びた剣が一本飾られている。相談者によって部屋は姿を変える。彼が一番落ち着ける場所になるように。障子が静かに開き、青年が入ってくる。部屋を見た瞬間、ほんの少しだけ青年の肩の力が抜けた。その姿に私は笑う。


「初めまして。異世界相談所へようこそ」


青年は私を見る。少しだけ目を細めた。


「……随分若いな」

「よく言われる」

「所長なんだろ?」

「一応ね」


青年は私の向かいへ腰を下ろした。目の前には湯気の立つ紅茶と焼き菓子。


「戦場帰りには、少し甘いものが必要だろう」


青年は焼き菓子を見る。


「……何年ぶりだろうな」


そう呟きながらクッキーを1枚手に取る。一口食べる。静かな音だけが響く。


「美味い」

「松ちゃんの自信作だから」

「松ちゃん?」

「受付の子」


思わず青年が笑う。その笑顔は年相応だった。まだ20代の青年なのだと、ようやく分かる。


「俺はルーカス。よろしく」

「尊だ」


私は湯呑みを持ち上げる。


「さて、君の話を聞かせてほしい」


ルーカスは迷いなく答えた。


「話すことなんてない。俺はやるべきことをやった。村を守れなかった子どもが、魔王を倒して世界を救った。十分だろ?」


その目には誇りがあった。嘘ではない。彼は本当にそう思っている。だから私は首を横に振らない。ただ1つだけ尋ねる。


「そうか、じゃあ」


私は紅茶を一口飲む。


「最後に笑ったのは、いつ?」


ルーカスの動きが止まった。クッキーを持つ手が空中で止まる。


「…………」


返事がない。彼は考えている。いつだったか。戦争が始まる前か、騎士学校か、村にいた頃か、それとも…。思い出せない。長い沈黙のあと、ルーカスは小さく笑った。


「参ったな。思い出せない」


私は静かに微笑んだ。


「そう。じゃあ今日は、その話をしようか」


暖炉の薪が、小さく弾けた。


ーパチッー


その音を合図にするように、ルーカスはゆっくりと自分の人生を語り始めた。それは、一人の少年が英雄になるまでの物語だった。


「俺の故郷は、王国の北にある小さな村だった」


ルーカスは紅茶を一口飲み、どこか懐かしそうに目を細めた。


「畑しかない、本当に小さな村さ。春になれば菜の花が咲いて、夏は子どもたちが川で泳いで、秋には村中で収穫祭を開く。冬になると雪が積もって、家族みんなで暖炉を囲む。のどかだけど、何もない場所だった」


そう言いながらも、その口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。


「でも、俺はあの村が好きだった」


私は黙って頷く。人は幸せだった場所を思い出すとき、自然と笑う。その笑顔は、どんな言葉よりも雄弁だった。


「父さんは猟師だった。母さんはパン屋を手伝っていてな。妹は…いつも俺の後ろをついて歩いてた。」


ルーカスは苦笑する。


「剣の真似事をすれば、『お兄ちゃん、わたしも騎士になる!』なんて言って、木の枝を振り回してさ。毎日が騒がしかった。でも、それが当たり前だった」


相談室に静かな沈黙が流れる。私はあえて先を急がない。幸せな記憶ほど、ゆっくり語った方が、その後の喪失が胸に響くからだ。


「俺が十歳の冬だった」


ルーカスの声色が変わる。穏やかだった表情から、笑みが消えた。


「雪が降っていた夜だった。最初は、遠くで雷が鳴ったんだと思った」


彼はゆっくり拳を握る。暖炉の火が、静かに揺れる。


「違った。魔物だった。村の見張りが鐘を鳴らした。逃げろ、魔物が来た、と。」


ルーカスの瞳は、もう相談室ではなく、あの日の夜を見ていた。


「父さんは弓を持って外へ飛び出した。母さんは妹を抱き締めていた。俺は怖くて動けなかった」


彼は自嘲するように笑う。


「10歳のガキだ。剣も振れないし、戦えるわけがない。それでも、父さんは俺を見て言った」


ルーカスはその言葉を、一語一句忘れていなかった。


「『ルーカス、お前は生きろ。妹を頼む』」


その瞬間、相談室の空気が重くなる。


「父さんは家を出た。それが最後だった」


私は静かに目を閉じる。この先の結末は、聞かなくても分かる。けれど、本人の口から語られることに意味がある。


「家の外から叫び声が聞こえた。剣がぶつかる音、家が燃える音、魔物の咆哮。全部、聞こえてた」


ルーカスは両手を強く握り締める。


「母さんは俺と妹を地下室へ隠した。『絶対に出ちゃ駄目よ』って。笑ってた…震えてたのに」


しばらく沈黙が続く。暖炉の薪が、小さく音を立てて崩れた。ルーカスは静かに続ける。


「地下室の扉が開いた。母さんじゃなかった。」


その一言だけで十分だった。


「その瞬間、妹は泣いた。俺は慌てて妹の口を押さえた。必死だった。でも、魔物は俺たちを見つけた」


彼は深く息を吐く。


「妹を抱えて逃げた。後ろなんて振り返れなかった。泣きながら雪の中を、ただ走った」


ルーカスは窓の外を見つめる。四季が共存する庭では、静かに雪が降り、その隣では桜が舞っていた。


「気付いたら、妹の身体が冷たくなってた。」


その言葉に、相談室は静寂に包まれる。


「逃げる途中で、瓦礫が当たってたんだ。俺は気付かなかった。守るって約束したのに。妹を抱えたまま……俺は、生き残った。」


彼は笑う。だが、その笑みはひどく痛々しかった。


「その日からだ。俺は決めた。もう二度と、大切な人を失わないって。だから剣を取った、だから騎士になった、だから誰より強くなろうとした」


ルーカスはまっすぐ私を見た。その瞳には揺るぎない決意が宿っている。


「英雄になれば、誰も泣かなくて済むと思った」


私は静かに紅茶を口へ運ぶ。少し冷めていた。それでも、その温かさは変わらない。


「ルーカス」

「なんだ?」

「君は、本当に英雄になりたかったのかな?」


その問いに、ルーカスは眉をひそめる。


「……どういう意味だ」


私は微笑む。


「続きを聞けば分かるよ。君自身がね…」


ルーカスはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「そうか……まだ話は終わってない、か。」


彼はティーカップを持ち上げる。静かに紅茶を飲み干し、再び語り始める。今度は、一人の少年が英雄と呼ばれるようになるまでの、長く険しい戦いの日々を。暖炉の火が、静かに揺れていた。ルーカスは懐かしむように目を細めた。


「15歳になった春、俺は王都の騎士学校へ入学した。入学式の日、教官に言われた言葉は今でも覚えてる。」


彼は当時の低く厳しい声を真似るように笑った。


「『ここに来た理由は違っても、卒業する頃には全員が国を背負う剣になる』ってな。その言葉を聞いて、俺は嬉しかった。国を守る、誰かを守る、そのための剣になれる。そう思ったんだ」


私は静かに湯呑みを持ち上げる。ルーカスの表情は、あの頃の少年に戻っていた。希望に満ちた、まっすぐな目。まだ、自分がどれほどのものを失うか知らない瞳だった。ルーカスは照れくさそうに笑う。


「俺、最初は弱かった。田舎育ちだったからな。王都の連中は強かった。剣も、魔法も、礼儀も、全部負けてた」

「悔しかった?」

「もちろん」


彼は迷いなく頷く。


「毎日、一番早く訓練場へ行った。一番遅くまで剣を振った。雨の日も、雪の日も、休んだことは一日もない。周りからは『努力の化け物』なんて言われてたよ」


その言葉に、私は小さく笑う。


「嬉しかった?」

「いや」


ルーカスは首を横へ振る。


「怖かった」


私は少しだけ眉を上げる。


「怖い?」

「止まったら…弱くなる気がした。弱くなったら、また誰かを守れなくなる。」


その言葉に、私は何も返さなかった。努力は美しい。けれど、恐怖から生まれた努力は、人の心を少しずつ削っていく。


「騎士学校で親友ができた。」


ルーカスの表情が少し柔らかくなる。


「ガイって奴だ。貴族だったけど、身分なんて気にしない変わった男だった。お前は真面目すぎる、もっと遊べ、青春を楽しめって、毎日のように言われたよ」


ルーカスは少し笑う。


「断ってばかりだったけどな」

「どうして?」


私が尋ねると、ルーカスは当然だと言わんばかりに答えた。


「遊んでる時間があったら剣を振る。それが当たり前だった。強くならなきゃ、守れない」


また、その言葉。『守る』彼の人生は、その一言だけでできている。


「卒業して一年。魔族との戦争が始まった」


相談室の空気が少しだけ張り詰める。ルーカスの声も低くなった。


「最初の戦場は、震えたよ。怖かった、逃げたかった。でも…」


彼は静かに拳を握る。


「俺の後ろには、守る人がいた。だから前に出た。……その日、初めて人を斬った」


長い沈黙が流れる。暖炉の火だけが静かに揺れていた。ルーカスは苦笑する。


「眠れなかったよ、何日も。相手にも家族がいたんじゃないか、俺は本当に正しかったのか、そんなことばかり考えてた。でも、戦争は待ってくれない。次の日も、また剣を振った。剣を振ってるうちに……慣れた」


その一言が、ひどく重かった。


「人を斬ることにも、仲間が死ぬことにも、血の匂いにも、全部」


ルーカスは自分の手を見る。節くれだった両手。数え切れないほど剣を握ってきた手。


「慣れちゃいけなかったのにな」


その呟きは、自分自身への言葉だった。私は静かに紅茶を飲む。何も言わない。今はまだ彼自身が、その意味に気付く時間だから。


「戦争は十年続いた。長かった。本当に長かった」


ルーカスは遠くを見る。


「部隊は何度も変わったよ。隊長も、仲間も。昨日まで笑っていた奴が、次の日にはいない。そんな毎日だった。それでも俺は生き残った」


その言葉に、相談室の空気が重く沈む。


「生き残るたびに、俺は英雄と呼ばれるようになった。勲章も貰った。爵位も貰った。拍手もされた」


ルーカスは少しだけ笑う。


「でも、誰1人…俺に『大丈夫か』とは聞かなかった」


私は初めて、ゆっくりと口を開く。


「聞かれたかった?」


ルーカスは驚いたように私を見る。すぐには答えられなかった。やがて、小さく息を吐く。


「……考えたこともなかった。英雄なんだから、大丈夫で当たり前だった。」


その声は、どこか寂しげだった。私は湯呑みを机に置く。小さく音が響く。


「ルーカス」

「うん?」

「君は、いつから『助けて』と言わなくなった?」


その問いに、ルーカスは何も答えられなかった。思い出そうとする。いつだった。騎士学校か、初陣か、それとも…妹を失った、あの日か。答えは見つからない。暖炉の薪が、小さく弾ける。


ーパチッ—


その音だけが、静かな相談室に響いていた。ルーカスは静かに紅茶を口へ運んだ。


「戦争が始まって10年。俺たちは、ようやく魔王城へ辿り着いた。」


その声には、勝利を語る高揚はなかった。ただ、長い旅路を振り返るような静けさだけがあった。


「最後まで残った仲間は、六人だった。騎士団長、宮廷魔導士、神官、弓使い、幼い頃から一緒に剣を振るってきた親友、ガイ」


そして、ルーカスは少しだけ柔らかく笑った。


「もう一人、エレナ。俺たちの部隊の治癒術師だった」


その名前を口にした瞬間だけ、彼の表情が少年のように優しくなる。私は何も言わず、その変化を見守る。


「よく怒られた。『もっと休んでください』『ちゃんと食べてください』『傷を隠さないでください』…まるで母親みたいだった」


ルーカスは照れくさそうに笑う。


「でも、不思議だった。エレナに叱られるのは嫌じゃなかった。……いや少し、嬉しかった」


私は穏やかに尋ねる。


「好きだった?」


ルーカスは耳まで赤くしながら苦笑した。


「今になって考えれば、そうだったんだろうな。でも、その頃は考える暇なんてなかった。戦争が終わったら、その時に伝えればいい…そう思っていた」


ルーカスの瞳が静かに揺れる。


「魔王は強かった。俺たち六人が全力で挑んでも、勝てるか分からなかった。だから皆で笑った。『帰ったら酒を飲もう』『次は平和な依頼だけ受けよう』『結婚式には呼べよ』……そんな話をしながら、魔王城へ入った」


長い沈黙。暖炉の薪が、小さく音を立てる。ルーカスはゆっくり目を閉じた。


「帰れたのは………俺、一人だった。」


その一言だけで十分だった。相談室は静寂に包まれる。


「団長は俺を庇って倒れた。神官は最後まで祈り続けた。魔導士は魔力を使い切って灰になった。弓使いは仲間を逃がすために残った。ガイは…」


ルーカスの拳が震える。


「笑ってた。『英雄になれ。俺の分まで』って」


そう言って、魔王を押さえ込んだ。


「そして…」


彼は静かに続ける。


「…エレナは……」


そこから先だけは、少し声が震えた。


「俺を生かすために、命を使い切った」


相談室には風鈴の音だけが響く。私は湯呑みを持ったまま、静かに彼を見つめていた。


「魔王を倒した時、俺は嬉しくなかった。勝った。世界は救われた。なのに……俺だけ、生き残った。英雄なんて、そんな大層なものじゃなかった」


ルーカスは苦笑する。


「王都へ帰ると、国中が歓迎してくれた。花が舞って、子どもたちが笑って…英雄、英雄って、皆が叫んでた」


彼は自嘲するように笑う。


「俺は笑えなかった。エレナも、ガイも、誰もいないのに俺だけ祝福されるなんて。そんな資格、ないと思った」


私は静かに問いかける。


「それでも、生きた?」

「ああ」

「仲間が繋いだ命だから?」

「無駄にはできない」


ルーカスは迷いなく答えた。その言葉に嘘はない。だからこそ、胸が締めつけられる。ルーカスは窓の外へ目を向ける。


「そして祝宴の日、王は笑っていた。『英雄ルーカス!国を救った功績を称える』皆が拍手した。酒が注がれ、音楽が流れた。……その夜………背中に、短剣が刺さった」


彼は静かに自分の胸へ手を当てる。相談室が静まり返る。


「振り向くと、王の近衛騎士だった。『英雄は、もう必要ない。民は英雄を王より慕う。だから消えてもらう』」


ルーカスは淡々と語る。怒りも、恨みも、まるで他人事のように。


「それで終わり。短い人生だった」


私は少しだけ首を傾げた。


「本当に?」


ルーカスが私を見る。


「まだ、終わりじゃない」


私は紅茶を一口飲んだ。


「君は今、ここにいる」

「……」

「つまり君の人生は、まだ終わっていない」


ルーカスは初めて言葉を失う。その沈黙の中、私は穏やかに続けた。


「ルーカス、君は王に裏切られたことを後悔している?」

「いや」

「仲間を救えなかったこと?」

「……違う」

「英雄になったこと?」

「それも違う」


私は静かに微笑んだ。


「じゃあ、君は何を後悔しているんだろうね」


その問いに、ルーカスは答えられなかった。彼は初めて、自分の人生を振り返る。英雄としてではなく。1人の人間として。その瞳には、今まで見ないようにしてきた感情が、ゆっくりと浮かび始めていた。相談室は静かだった。時計は相変わらず止まったまま。四季の庭では桜の花びらが舞い、そのすぐ隣では雪が音もなく降り積もっている。時間だけが、この場所には存在しない。それでも、人の心だけは確かに動いていた。ルーカスは俯いたまま、自分の両手を見つめている。幾千もの命を守り、幾千もの命を奪った手。その手は震えていた。


「……分からない」


ぽつりと漏れた声は、戦場で英雄と呼ばれた男とは思えないほど弱々しかった。


「俺は何を後悔しているんだ」


私は急かさない。答えは私が教えるものではない。本人が見つけるものだから。しばらく沈黙が続いたあと、私は静かに尋ねた。


「ルーカス。もし誰も傷つかない世界だったら、君は何になりたかった?」


ルーカスは顔を上げる。その問いは、今まで一度も考えたことがなかった。英雄になることだけを考え続けた人生。


「……俺は」


唇が震える。


「俺は……」


やがて、小さく笑った。


「妹と畑を耕して、父さんみたいに狩りをして、母さんの焼くパンを食べながら…普通に生きたかった」


その瞬間だった。張りつめていた何かが、音を立ててほどけた。ルーカスの頬を、一筋の涙が伝う。


「英雄なんて……本当は、なりたくなかった。ただ、もう誰も失いたくなかっただけなんだ」


私は静かに頷く。


「ようやく思い出せたね」


ルーカスは泣きながら笑う。


「情けないな。世界を救った英雄が、こんなことで泣くなんて」

「情けなくなんてないよ」


私は穏やかに微笑んだ。


「人は、泣けるうちは大丈夫だから」


松平が新しい紅茶を運んでくる。温かな香りが、部屋いっぱいに広がる。ルーカスは涙を拭い、照れくさそうに頭を下げた。


「ありがとう」


松平はにこりと笑って一礼し、静かに部屋を後にした。私は湯呑みを置く。


「さて、君には3つの選択肢がある」


相談室の空気が変わる。レイリアの時と同じように。


「1つ目、この相談所で、好きなだけ休む。2つ目、輪廻の輪へ進み、新しい人生を歩む。そして3つ目…君の人生を、もう一度やり直す」


ルーカスは驚かなかった。不思議と、その言葉が本当だと分かったのだろう。


「……戻れるのか」

「ああ。ただし、未来は変わる。同じ人生にはならない。それでも…」


私は微笑む。


「君自身が選んだ未来になる」


長い沈黙。ルーカスは目を閉じる。父の笑顔、母の手、妹の無邪気な声、ガイの笑顔、エレナの優しい叱責、守れなかった人たちの顔が次々と浮かぶ。そして、ゆっくりと目を開いた。


「3つ目を選ぶ」


その声には迷いがなかった。


「今度は、英雄じゃなくていい。仲間と笑って、好きな人に好きだって伝えて、助けてほしい時は助けてって言える。そんな人生を生きてみたい」


私は心から嬉しくなった。


「その答えを待っていた」


私は静かに立ち上がる。パン、と手を合わせる。乾いた音が相談室に響いた。空間がゆっくり揺らぎ、光の中から1枚の白い扉が現れる。輪廻へ続く扉とは違う。時を遡るためだけに開く扉。


「君が望む時まで遡る…」


ルーカスは立ち上がる。扉の前で一度だけ振り返った。


「尊」

「なんだい?」

「ありがとう」


私は首を横に振る。


「礼を言うのは、未来の君だよ」


ルーカスは笑った。今度の笑顔は、英雄ではなく、1人の青年の笑顔だった。そして、光の中へ歩いていく。その姿が完全に消えると、扉も静かに閉じた。相談室には、再び静寂が戻る。松平がそっと部屋へ入ってくる。


「今回も、無事に送り出せましたね」

「ああ」


私は庭へ目を向ける。風が吹く。桜が1枚舞い上がる。その向こうに、世界の理が幾重にも重なって見えた。


「……見つけた」


小さく呟く。松平が首を傾げる。


「何かございましたか?」


私は穏やかに笑う。


「いや、独り言だよ」


庭のさらに向こう。ルーカスがいた世界の空に、一柱の神がこちらを見ていた。こちらの存在に気付くと、すぐに姿を消す。私はその気配だけを静かに見送った。


「また一柱……逃がさない」


その言葉は風に溶け、誰の耳にも届かなかった。私は執務室へ戻る。止まった時計、名前のない本が並ぶ本棚、その中の一冊が、音もなく光った。手に取ると、表紙には何も書かれていない。ページを開くと、ゆっくりと文字が浮かび上がる。


『ルーカス』


その下には、新しい一行が記されていた。


ー英雄になりたかった青年は、ようやく自分の人生を歩き始めたー


私は本を静かに閉じ、本棚へ戻す。今日もまた、1つの人生が未来へ進んだ。そして私は、新しい来訪者を迎えるため、止まった時計が並ぶ相談所をあとにした。




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