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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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2/43

恋を知らない公爵令嬢

【備忘録】


人は最期の瞬間、「何を失うか」ではなく、「何を残してきたか」を思い出す。


ー尊ー



「尊様」


松平に呼ばれ、私は静かに障子を開けた。相談所の一番奥。来訪者が最初に目を覚ます部屋は、いつ見ても不思議だ。この部屋には決まった形がない。訪れる人によって、部屋そのものが姿を変える。豪奢な王宮の寝室になることもあれば、小さな村の木造の部屋になることもある。現代世界の人間なら病室になることもあった。この部屋を造っているのは私ではない。相談所そのものだ。ここは、その人が最も安心できる場所を映し出す。


私は襖を静かに開いた。そこには、天蓋付きの大きな寝台が置かれた寝室が広がっていた。白を基調とした家具。磨き上げられた床。窓辺には青い花が飾られている。…公爵家の令嬢らしい部屋だ。寝台では、一人の少女が静かに眠っていた。銀色に近い淡い金髪、長い睫毛。その表情は驚くほど穏やかだった。ほんの数秒前まで、断頭台に立っていたとは思えないほどに。私は少しだけ目を細める。


「苦しまなかった?」


松平が小さく頷いた。


「はい。一瞬でした」

「そう」


私は少女の寝顔を見つめる。…良かった。死ぬ苦しみは短い方がいい。私は昔から、そう思っている。なぜそう思うのかは分からない。けれど、この気持ちだけは昔から変わらない。


「そろそろ起きます」


松平が一歩下がる。次の瞬間、少女の指先が微かに震えた。


「……っ」


ゆっくりと瞼が開く。美しい蒼い瞳が天井を映した。状況が理解できないのだろう。身体を起こし、辺りを見回している。その視線は、自分の首元で止まった。恐る恐る首へ触れる。傷がない、血もない、ドレスも破れていない。何度も首へ触れ、少女は呆然と呟いた。


「……どうして…私は……処刑、されたはず……」


その声は震えていた。無理もない。目を閉じた次の瞬間には、知らない場所で目覚めたのだから。私はまだ部屋へ入らない。最初に会うのは私ではない。相談所へ来た人は皆、最初に松平と会う。それがこの場所の決まりだ。松平はゆっくりと少女の前へ歩み寄る。そして自然に膝を折り、目線を合わせた。


「お目覚めになりましたか」


少女は驚き、思わず後ろへ身を引いた。


「あなたは……?」

「ようこそ、異世界相談所へ」


松平はいつもの優しい笑顔を浮かべる。


「私は受付兼案内役をしております、松平と申します」

「…異世界?」

「はい」


少女は理解できないという表情を浮かべる。当然だ。異世界の存在など、普通は知らない。


「私は……死んだのですか?」


松平は静かに頷いた。


「はい」


その一言だけ。余計な慰めは言わない。ここでは嘘をつかない。それが相談所の決まりだ。少女、レイリアは静かに俯いた。泣き叫ぶこともない、怒ることもない。ただ、自分の両手を見つめている。私はその姿を見て、小さく息を吐いた。思わず呟く。


「この子…最後まで、自分より周りを見ていたんだね」


松平がこちらを見る。


「分かるのですか?」

「うん」


私は部屋の入口にもたれながら答えた。


「自分が死んだことより、周りがどうなったかを気にしてる顔だから」


その言葉通りだった。レイリアは顔を上げ、小さな声で尋ねた。


「家族は……」


その一言だけだった。自分ではない、王太子でもない、国でもない。最初に口から出たのは、家族だった。


「父と母、それに兄は……」


その声は今にも消えそうだった。松平は少しだけ困ったように笑う。


「その質問にお答えできる方がいらっしゃいます」

「…え?」

「相談所の所長、尊様です」


レイリアは首を傾げた。


「所長……尊様?」

「はい」


松平は立ち上がり、部屋の扉へ向かう。


「きっと、その方なら貴女の知りたいことを教えてくださいます」


レイリアは戸惑いながらも立ち上がった。歩こうとした瞬間、足元がふらつく。松平がそっと支える。


「大丈夫ですか?」

「はい……ありがとうございます」


礼を言う。こんな状況でも礼儀を忘れない。育ちの良さなのだろう。私は自然と笑ってしまった。


「やっぱり…」


松平が振り返る。


「どうされました?」

「…いや」


私は苦笑する。


「この子、真面目すぎる。ゆっくりでいい。落ち着いたら、おいで。道は真っ直ぐしかないから迷わないよ」


その言葉に、松平も小さく笑った。やがて2人はレイリアを置いて部屋を出る。その先には、止まった時計が並ぶ受付。そして、そのさらに奥。四季が共に息づく庭を挟んで、一枚の障子が静かに佇んでいた。私は先回りするように廊下を歩き、自分の執務室へ戻る。松平も後に続く。文机の上には、湯気の立つ急須、焼きたての小さなクッキー。そして、真っ白な一冊の本。まだ名前は浮かんでいない。私は湯呑みを手に取り、小さく笑う。


「さて…今日は、どんな人生を聞かせてくれるのかな」


障子の向こうから、小さな足音が近づいてきた。足音を聞きながら、部屋の畳の香りが鼻をくすぐる。畳の香りは、不思議なものだ。理由は分からない。けれど、この香りを嗅ぐと心が落ち着く。人間だった頃の記憶は何1つもないというのに、畳へ寝転がれば懐かしいような気持ちになるし、縁側へ腰掛ければ「ここが自分の居場所だ」と思える。


……変だよね


自分でもそう思う。私は急須から湯呑みにお茶を注ぎながら、小さく笑った。


「尊様」


後ろから松平の声がする。


「もうすぐ到着します」

「うん」


私は湯気を見つめたまま答える。


「クッキー、焼きたて?」

「はい」

「ありがとう」

「本日はバターを少し多めにしております」

「それは楽しみだ」


松平は呆れたように笑う。


「相談者より先に、お菓子を楽しみにする神様は尊様くらいですよ」

「仕方ないよ」


私は肩を竦めた。


「甘いものは世界を救うから」

「その理論は何度聞いても理解できません」

「僕も」


思わず笑ってしまう。本当に理解できないのだ。どうして甘いものを食べると幸せな気持ちになるのか。どうしてお茶を飲みながら誰かと話す時間が好きなのか。理由は知らない。けれど、相談者が少しずつ笑顔になっていく姿を見ると、「きっとこれでいいんだ」と思える。それだけで十分だった。私は机の上へ視線を落とす。白紙のままの備忘録。まだ何も書かれていない。この本は、相談が終わるまで決して文字を受け入れない。相談者自身が未来を選び、その心が定まったとき、初めて最後の1ページだけを書くことが許される。


「今日も、どんな言葉を書こうかな」


独り言のように呟く。その言葉へ答える者はいない。ただ、本棚の一番端に置かれた1冊だけが、静かにそこにあった。名前のない本。私は無意識にその本へ手を伸ばした。けれど、指先が触れる寸前で止まる。


「…君は、まだ読ませてくれないんだね」


何度手に取ろうとしても、この本だけは開けない。不思議だとは思う。けれど、昔からそうだった。だから深く考えたことはない。


「尊様」


松平が静かに襖へ視線を向ける。


「来られました」


その言葉と同時に、小さく襖が叩かれた。


「失礼いたします」


緊張した女性の声。私は湯呑みを机へ置き、自然と笑みを浮かべた。


「どうぞ」


襖がゆっくりと開く。最初に入ってきたのは出迎えに行った松平だった。その半歩後ろで、レイリアが部屋の中を見回している。畳、障子、掛け軸、文机。どれも初めて見るものばかりなのだろう。目を丸くしながら、1つ1つを見つめている。……そうか。レイリアの世界には畳がないんだ。


「ようこそ」


私は立ち上がり、一礼した。


「異世界相談所へ」


レイリアは慌てて頭を下げる。


「は、初めまして。レイリア・フォン・エルフェルトと申します。お会いできて光栄です」


…本当に真面目な子だ。処刑された直後だというのに、礼儀を崩さない。私は思わず口元を緩めた。


「そんなに緊張しなくても大丈夫。ここでは身分も立場も関係ないよ。」


レイリアは少し困ったように微笑む。


「ですが……癖なんです。小さい頃から、礼儀を忘れてはいけないと教えられてきましたので」


私は頷いた。


「いい家族だったんだね」


その瞬間だった。レイリアの表情が曇る。胸元で両手を握りしめ、小さく俯いた。


「家族は……無事なのでしょうか」


やっぱり最初に聞くんだ。自分のことではない。最初から最後まで、家族のことばかり。私はレイリアを見つめながら、静かに席を勧めた。


「その話をする前に……まずは、お茶にしよう。」

「え?」


予想していなかったのだろう。レイリアが驚いた顔をする。私は笑いながら急須を持ち上げた。


「相談所ではね…どんな話も、お茶を飲みながらするんだ。悲しい話も、苦しい話も、嬉しい話も。全部、お茶のお供なんだよ」


松平が静かに紅茶を運んでくる。白磁のティーカップ、湯気の向こうから漂う上品な香り。その隣には、小さな花の形をした焼き菓子。レイリアは目を見開いた。


「……この香り。私の屋敷で飲んでいた紅茶です。それに、この焼き菓子も…」


私は少しだけ肩をすくめる。


「相談所はね…その人が、一番安心できる時間を用意してくれる場所なんだ」


レイリアは震える指でティーカップを持ち上げる。一口、ゆっくりと紅茶を口へ含んだ。その瞬間だった。ぽろり、と一粒の涙がティーカップへ落ちる。


「……あ」


自分でも気付かなかったのだろう。レイリアは慌てて涙を拭う。私は何も言わない。慰めもしない。ただ、自分の湯呑みに口をつける。しばらく部屋には、お茶を飲む音だけが流れた。静かな時間。急かす者は誰もいない。相談とは、言葉を引き出すことではない。相手が、自分から話したくなるまで待つこと…それが、私のやり方だった。やがてレイリアが深く息を吸い、小さく顔を上げる。その瞳には、少しだけ覚悟の色が宿っていた。


「……尊様」

「はい」

「私の人生を、聞いていただけますでしょうか」


私は穏やかに微笑み、静かに頷いた。


「もちろん。今日は、そのために君はここへ来たんだから。」


四季庭を吹き抜けた風が、風鈴を優しく鳴らす。レイリアはティーカップを両手で包み込んだまま、小さく息を吐いた。温かな紅茶の湯気が頬を撫でる。その温もりに背中を押されるように、彼女は静かに口を開いた。


「私は、公爵家の長女として生まれました」


私は相槌を打つこともなく、ただ耳を傾ける。相談者の言葉を遮らない。それも、この相談所で私が大切にしていることの1つだった。


「幼い頃から、周囲の大人たちは『将来は王太子妃になるお方です』と私に話していました」


レイリアは苦笑する。


「その頃は、何も分かっていなかったのです。王太子妃とは何なのか、婚約とは何なのか。ただ皆が喜んでくださるなら、それで良いのだと思っていました」


私は静かにクッキーを一枚口へ運ぶ。甘い香りが口いっぱいに広がる。……やっぱり、松ちゃんのクッキーは美味しい。そんなことを考えながらも、意識はすべてレイリアへ向けていた。


「七歳の春、私は王太子殿下との婚約者に選ばれました」

「嬉しかった?」


私が初めて問いかける。レイリアは少し考え、首を横に振った。


「分かりませんでした」


その答えは迷いがなかった。


「周囲は皆、祝福してくださいました。父も母も兄も、とても喜んでいました。だから私も笑いました。でも……」


彼女は窓の外、四季が共存する庭を見つめる。


「自分が何を望んでいるのか、一度も考えたことはありませんでした」


庭では桜の花びらが風に舞い、その隣で紅葉が静かに揺れている。異なる季節が争うことなく共にある景色は、不思議と人の心を落ち着かせる。私はそっと湯呑みを持ち上げた。


「婚約してからは?」

「毎日勉強でした」


レイリアは少しだけ肩を落とす。


「歴史、政治、外交、礼儀作法、舞踏、音楽、外国語、王妃教育。朝から夜まで先生方がいらっしゃって……」


そこで彼女は、どこか懐かしそうに笑った。


「勉強は嫌いではありませんでした。知らないことを知るのは、とても楽しかったのです」

「では、辛くはなかった?」

「はい」


即答だった。


「学ぶことは好きでした。けれど学ぶために、大切なものを失っていたことに気付けませんでした」


その言葉に、私は何も返さない。レイリア自身が、その答えへ辿り着こうとしているからだ。


「兄が庭で遊ぼうと誘ってくれても、『授業があります』と断りました。母がお茶に誘ってくださっても、『課題があります』と断りました。父がお休みの日に散歩へ行こうと言ってくださっても、『王妃教育がございます』と……断りました」


彼女の声が少し震える。


「全部。全部、自分で断っていたんです」


私は静かに目を閉じた。レイリアは誰かに奪われた人生だと思っている。けれど、本当は違う。


「……レイリア」

「はい」

「その時の君は、幸せだった?」


彼女は困ったように微笑む。


「分かりません。幸せかどうかを考える暇がありませんでした。」


その答えを聞き、私は心の中で小さく頷いた。やっぱり、この子は優しい。だからこそ、自分のことを後回しにしてしまう。


「王太子殿下とは、どのような方だったの?」


レイリアは少しだけ考える。


「優しい方でした。少なくとも最初は…勉強熱心で、誰にでも分け隔てなく接する方でした。私も、そのような殿下を尊敬していました」

「恋ではなく?」

「はい」


レイリアは首を横に振る。


「恋が何なのか、最後まで分かりませんでした。殿下を見ても胸は高鳴りませんでしたし、お会いできる日を楽しみに思うこともありませんでした。ただ…将来、一緒に国を支える方なのだと思っていました」


私は思わず苦笑する。


「真面目だね」

「よく言われます。でも……」


レイリアは少しだけ寂しそうに笑った。


「普通の女の子が話す恋の話は、少し羨ましかったです。『好きな人が笑ってくれた』とか、『目が合った』とか、『手が触れた』とか。皆、とても楽しそうでした。私は、その気持ちが最後まで分かりませんでした」


その言葉を聞いた私は、ふとあることを思う。恋を知らなかったのではない。恋を知る時間が、与えられなかった。それだけなのだ。レイリアはそのことに、まだ気付いていない。だから私は、その答えを口にはしない。相談者が自分で見つけた答えだけが、その人の未来を変えるのだから。静かな沈黙が流れる。四季庭から吹いた風が障子をわずかに揺らし、風鈴が小さく鳴った。


ーチリン―


その音を聞きながら、私はゆっくりと口を開く。


「レイリア」

「はい」

「君は……いつから笑わなくなったんだろうね?」


その問いに、レイリアは目を見開いた。彼女は初めて、自分の人生を振り返るように遠くを見つめる。そして、ゆっくりと首を横へ振った。


「……思い出せません」


その一言は、彼女自身の心に深く突き刺さっていた。レイリアはしばらく黙ったまま、紅茶の水面を見つめていた。揺れる琥珀色の液面に、自分の姿がぼんやりと映る。


「あの日も……」


ぽつり、と言葉が零れる。


「紅茶を飲んでいました」


私は何も言わず、続きを待つ。


「王宮から招待された、お茶会の日でした。婚約者として、王太子殿下のお隣へ立つはずだった日です」


レイリアはゆっくりと目を閉じる。その日を思い出すように。


「突然でした。殿下が立ち上がり、皆の前で私との婚約を破棄すると宣言されたのです」


部屋の空気が静かに張りつめる。


「『レイリア・フォン・エルフェルトは、聖女を虐げ、王家を欺き、国を混乱へ導こうとした』…そう、告げられました」


レイリアは自嘲するように笑う。


「身に覚えは、1つもありませんでした。聖女様とは数回しかお会いしたこともなく、まともにお話ししたこともありません。それでも…誰も、私の話を聞こうとはしませんでした」


その声には怒りよりも、深い戸惑いが滲んでいた。


「王太子殿下も?」


私が静かに尋ねる。レイリアは小さく頷く。


「殿下は……私を一度も見ませんでした。婚約破棄を告げる間も、私が無実を訴える間も。…最後まで、私と目を合わせてくださいませんでした」


私は湯呑みを静かに置く。畳に小さく音が響く。


「そのまま牢へ?」

「はい。裁判もありませんでした。王命だから、と……私はそのまま地下牢へ連れて行かれました」


地下牢、湿った石壁、鉄格子、冷たい床。王妃教育を受け、公爵令嬢として育った彼女には、あまりにも過酷な場所だっただろう。


「怖かった?」


レイリアは少しだけ考えた。


「最初は……でも数日経つ頃には、怖さより諦めの方が大きくなっていました。誰も助けに来ない、私はここで終わるのだ、と…」


そう語るレイリアの表情は、不思議なほど穏やかだった。


「父や母、お兄様は何をしているのだろう。そのことばかり考えていました。心配をかけているでしょう。私のせいで、公爵家が責められているかもしれない。…最後まで、家族が心配で堪りませんでした」


私は静かに目を伏せる。やはり、この子は優しすぎる。だから、自分が壊れていることにも気付けなかった。


「そして……」


レイリアの声が少し震えた。


「処刑の日が来ました」


その瞬間。相談室に吹く風が、ぴたりと止んだような気がした。四季庭も、静かに息を潜める。


「断頭台へ向かう道には、多くの人がいました。罵声を浴びせる方、石を投げる方、興味本位で見ている方。皆さんの顔は覚えていません。ただ1つだけ、忘れられない光景があります」


レイリアの瞳が潤む。私は何も言わない。ただ、彼女を見つめる。


「……父でした。お父様が、そこに立っていました」


一筋の涙が頬を伝う。


「お兄様は、兵士に押さえられながら、何度も私の名前を叫んでいました。『レイリア!』と。母は……」


レイリアは唇を震わせる。


「母は泣いていました。今まで見たことがないくらい大きな声で名前を呼んでくれていました。それでも……最後まで私へ笑おうとしてくださったんです。」


その笑顔を思い出したのだろう。レイリアは堪えていた涙を止められなくなった。ぽろぽろと、大粒の涙が畳へ落ちる。


「その時、初めて思いました。王太子妃なんて、なりたくなかった。」


その言葉には、18年間押し殺してきた本心が詰まっていた。


「もっと……もっと、お父様とお茶が飲みたかった。もっと、お母様と買い物へ行きたかった。もっと、お兄様と庭で遊びたかった。恋も、友達とのおしゃべりも、旅行も、お祭りも、何も知らないまま……私は…」


彼女は震える声で続ける。


「首が落ちる、その一瞬まで。生きたいと、自分の人生を後悔しましたっ」


その言葉と共に、レイリアは顔を覆って泣き崩れた。声を押し殺しながら、子どものように。相談室には嗚咽だけが静かに響く。私は立ち上がることもしない。慰めの言葉も掛けない。今は泣く時間だから。後悔は、涙と共に流れ出して初めて言葉になる。松平も静かに席を外していた。この時間は、誰にも邪魔できない。やがて長い沈黙のあと、レイリアは震える手で涙を拭った。


「……申し訳ございません。見苦しい姿を」


涙声のまま頭を下げる。私は小さく首を横へ振った。


「違うよ」


その一言だけを返す。レイリアがゆっくり顔を上げる。私は穏やかに微笑んだ。


「今、君は初めて、自分の人生を生きた」


レイリアは息を呑む。


「王太子妃としてじゃない、公爵令嬢としてでもない、誰かの期待でもない。レイリアという、1人の女の子として…」


相談室に静かな風が吹き抜ける。桜の花びらが障子の向こうで舞い、風鈴が澄んだ音を響かせた。私は湯呑みを持ち上げる。そして、ゆっくりと口を開いた。


「だから、ここから先は、君自身が選ぶ番だ」


レイリアは涙で濡れた瞳のまま、私を見つめる。その瞳には、処刑台の上にはなかった光が、ほんの少しだけ宿り始めていた。しばらく誰も言葉を発しなかった。障子の向こうでは、鹿威しが静かに響く。


—コーンー


一定の間隔で鳴るその音だけが、相談室に穏やかな時間を刻んでいた。私は急須を持ち上げ、レイリアのティーカップへ紅茶を注ぐ。琥珀色の液面から立ち上る湯気が、2人の間をゆっくりと漂った。


「……少し冷めてしまったね」


レイリアは慌てて首を横に振る。


「いいえ。ありがとうございます」


私は自分の湯呑みにもお茶を注ぎ、一口飲む。


「ねえ、レイリアさん」

「はい」

「焼き菓子は好き?」


突然の問いに、レイリアは目を瞬かせた。


「……え?」


その反応が可笑しくて、思わず笑みが零れる。


「甘いもの、好き?」


レイリアは少しだけ困ったように笑った。


「はい。好きです」

「そう」


私はクッキーを1枚摘まむ。


「美味しいものを食べている時ってね」


一口かじる。サクッ、と小気味よい音がした。レイリアは不思議そうに私を見る。


「人は少しだけ素直になれる。泣きたい人は泣くし、笑いたい人は笑う。だから僕は、お茶の時間を大切にしてる」


レイリアは小さいクッキーを手に取る。花の形をした焼き菓子を一口食べる。その途端、彼女の表情がふっと和らいだ。


「……美味しい」

「でしょう?」

「はい」


処刑され、死を迎え、異世界相談所へ辿り着いてから初めて。レイリアは心から笑った。その笑顔を見て、私は心の中でそっと安堵する。


「…やっと笑えたね……1つだけ、君の質問に答えよう」


その言葉に、レイリアは姿勢を正した。


「ご家族のこと、ですよね?」

「はい」

「お父様も、お母様も、お兄様も、生きている」


その言葉に、レイリアは大きく息を吐いた。胸に手を当て、静かに目を閉じる。


「……良かった」


私はその続きを静かに告げる。


「ただ…」


レイリアの肩が小さく震えた。


「穏やかには過ごせていない」

「え……?」

「反乱を起こそうとしている」


相談室に沈黙が落ちた。レイリアの瞳が揺れる。


「反乱……?どうして……」


私は優しく答えた。


「君を殺されたから」

「え……」

「家族だから。愛する娘を、妹を、奪われた。だから彼らは立ち上がった」


レイリアの目から、再び涙が零れた。


「そんな、駄目ですっ……お父様も、お兄様も……死んでしまいます……」


私は静かに頷いた。


「その可能性は高い」

「嫌……もう誰も失いたくありません……!」


レイリアは両手を握り締める。その震えは、もう恐怖ではなかった。大切な人を守りたいという願いだった。私は湯呑みを机へ置く。


「レイリアさん」

「はい…」

「君は、自分のことを『欲深い』と言ったね」


レイリアは俯いたまま、小さく頷く。


「はい」


私はゆっくり首を横へ振る。


「違う。君は欲深くなんかない。」

「え…?」

「七つの大罪って知ってる?」

「聞いたことはあります」

「傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。これらは、自分のためだけに他者を傷つける欲だ」


私は1つずつ指を折りながら数える。そしてレイリアを真っ直ぐ見る。


「でも君が望んだものは違う。家族と笑いたかった。恋をしてみたかった。友達とお茶を飲みたかった。もっと生きたかった。それは欲望じゃない。渇望だ」


その言葉に、レイリアは息を呑む。


「心が、生きたいと叫んだ証なんだ」


相談室を静かな風が吹き抜けた。風鈴が、小さく鳴る。レイリアは唇を噛み締めながら、小さく涙を流した。今度は悲しみではない。ようやく、自分を許せた涙だった。私は立ち上がり、文机の前へ向かう。柏手を打つことはしない。代わりに、棚から3つの湯呑みを持ってくる。白、藍、黒。畳の上へ静かに並べた。


「これは?」

「君の未来」


レイリアは不思議そうに見つめる。私は白い湯呑みに触れた。


「1つ目、相談所で心が癒えるまで暮らす」


次に藍色の湯呑みへ。


「2つ目、輪廻の輪へ還り、新しい人生を歩む」


最後に黒い湯呑みへ手を置き、私はレイリアを見る。


「そして三つ目、僕と一緒に、人生をやり直す」


部屋が静まり返る。レイリアは3つの湯呑みを順番に見つめた。迷いはなかった。ゆっくりと黒い湯呑みへ手を伸ばす。しかし、私はその手を止めた。


「本当に?」


レイリアが私を見る。


「また苦しむかもしれない。また裏切られるかもしれない。また処刑されるかもしれない。それでも…君は、もう一度生きる?」


長い沈黙。庭で桜の花びらが風に舞う。やがてレイリアは、私を真っ直ぐ見つめた。その瞳には、処刑台にはなかった光が宿っている。


「私は…」


その声は、小さい。けれど決して揺らがない。一度、目を閉じる。そして笑った。


「生きたいです」


その笑顔は、誰かの期待に応えるためではなかった。公爵令嬢でもない、王太子妃候補でもない。一人の少女、レイリア自身が選んだ未来だった。私は自然と笑みを浮かべる。


「そう。その言葉が聞きたかった」


私は静かに立ち上がる。両手を胸の前で合わせた。


ーパンッ—


澄んだ柏手の音が相談室へ響く。その瞬間、何もなかった空間に、一枚の古い木の扉が現れた。優しい光が扉の隙間から溢れている。


「この扉は……?」

「君の人生へ続く扉」


私はレイリアへ手を差し伸べた。


「行こう。人生を取り戻しに」


レイリアはその手を見つめる。そして迷うことなく、そっと手を重ねた。その瞬間、世界が光に包まれた。







相談室からレイリアの姿が消える。静寂が戻った部屋で、私は文机へ腰を下ろした。1冊の白い本が、ふわりと机の上へ現れる。金色の文字が、ゆっくりと背表紙へ浮かび上がった。


『レイリア・フォン・エルフェルト』


私は筆を取り、最後の一頁だけを書く。


——君は今日、生きたいと願った——


その願いを忘れない限り、君の人生は何度でも花を咲かせる。筆を置くと、本は淡い光に包まれ、本棚へ静かに収まった。私は何気なく、その隣へ目を向ける。そこには今日も、一冊だけ名前のない本があった。


「……まだか」


誰にともなく呟く。その本は、今日も何も語らない。私は湯呑みに残ったお茶を飲み干し、小さく笑った。


「さて、次のお客様を迎える準備をしよう」


遠くでまた、小さな鈴が鳴り始めていた。





ーカランー



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