プロローグ
【備忘録】
人は、死ぬから後悔するのではない。
生きたかったと願うから、後悔する。
ー尊ー
カラン…
澄み切った鈴の音が、静寂を優しく揺らした。その音は風に乗り、長い回廊へ静かに響いていく。天井には、数え切れないほどの鈴が吊るされていた。金色の鈴、銀色の鈴、透き通る硝子の鈴、木を削って作られた素朴な鈴。世界が違えば文化も違う。だから鈴も、それぞれ少しずつ形が違う。けれど、鳴る音だけは皆同じだった。どこか懐かしく、どこか切なく、まるで誰かの人生に、そっと幕を下ろすような音色だった。その中の一つだけが、小さく震え続けている。
カラン…
カラン……
「……また、一つ鳴りましたね」
少女が静かに呟く。受付の奥、壁一面には無数の時計が並んでいた。大きな振り子時計、古びた柱時計、懐中時計、砂時計、魔法で動く時計、異世界の職人が作った精巧な時計。それらは世界中の時を刻むはずのものだった。けれどこの部屋では、そのどれ一つとして針を動かしてはいない。秒針は止まり、振り子は揺れず、砂時計の砂ですら落ちることはなかった。この場所に、時間という概念は存在しない。少女、松平は止まった時計を見上げ、小さく微笑む。
「今日のお客様は、どのような方でしょう」
返事はない。だが、それでいい。相談所では、鈴が鳴れば自然と一人の人物が動き出す。松平は受付を離れ、静かな廊下を歩き始めた。畳敷きの廊下は、歩くたびにかすかな音を立てる。障子越しには、柔らかな陽の光が差し込んでいた。この場所に太陽はない。それでも、いつも穏やかな昼下がりのような光が降り注いでいる。廊下の先には、1枚の障子。松平は軽く一礼すると、音も立てずに開いた。
「尊様」
返事より先に、お茶の香りが漂ってくる。障子の向こうは、8畳ほどの和室だった。青々とした畳に年季の入った文机。硯と筆、几帳面に積み重ねられた和紙。そして壁一面を埋め尽くす、大きな本棚。本棚には無数の本が並んでいる。どれも装丁は美しい。しかし、不思議なことに背表紙には何も書かれていなかった。題名も、名前も、何一つ。真っ白な本だけが、静かに眠っている。その本棚の前で、1人の青年が筆を置いた。黒い髪、黒い瞳に年齢を感じさせない穏やかな顔立ち。どこか人間らしく、それでいて人間離れした静けさを纏っている。青年はゆっくりと顔を上げた。
「松ちゃん」
その声は、春風のように柔らかかった。松平は微笑む。
「鈴、鳴いた?」
「はい。1つだけ」
尊は、小さく頷く。
「そっか」
立ち上がり、縁側へ向かう。障子を開けると、四季が同時に息づく庭が広がっていた。右手には満開の桜。左手には燃えるような紅葉。池のほとりには雪が積もり、その向こうでは向日葵が太陽へ向かって咲いている。鹿威しが静かに鳴り、風鈴が涼やかな音色を奏で、錦鯉がゆったりと泳いでいた。この庭だけは、誰の心も自然と落ち着かせる。尊は縁側へ腰を下ろし、湯呑みに口をつけた。
「今日は紅茶じゃないんですね」
湯呑みを使っている姿を見て、松平が尋ねる。尊は湯呑みを眺めながら笑う。
「うん。なんとなく、お茶が飲みたくて」
「理由は分からない、と」
「うん」
それがいつもの答えだった。尊には、自分がなぜ和室で暮らし、緑茶を好み、畳の香りに安心するのか分からない。記憶がないのだ。神になる前のことを、何1つ覚えていない。それでも、この部屋だけは最初から存在していた。まるで、自分の心が形になったように。
「松ちゃん」
「はい」
「今日のお客様は?」
松平は目を閉じる。鈴に宿る残響へ、そっと意識を向ける。やがて静かに目を開いた。
「十八歳、女性。異世界アルディア王国、公爵令嬢。お名前は…レイリア・フォン・エルフェルト様です」
尊は湯呑みを机へ置いた。
「恋を知らない子だね」
松平は少しだけ目を丸くする。
「まだ備忘録も開いていないのに、お分かりになるのですか?」
尊は困ったように笑った。
「分かるわけじゃないよ。ただ……そんな気がしただけ。」
そう言って、本棚へ目を向ける。無数の白い本。その中に、1冊だけ…誰にも読まれず、誰にも触れられない本があった。他の本と同じ装丁。けれど、どれだけ時が流れても名前が浮かぶことはない。尊は時折、その本を眺めては首を傾げる。
「…君は、誰なんだろうね」
小さな独り言。もちろん返事はない。松平だけが、その本を静かに見つめていた。やがて、相談所の奥から柔らかな光が漏れ始める。
「来られたようです」
「うん」
尊は立ち上がる。湯呑みを机へ戻し、衣の裾を整える。その表情は穏やかで、優しい。けれど、その瞳の奥には、どこか拭いきれない孤独が宿っていた。
「それじゃあ、今日も、1人の人生を聞かせてもらおうか」
尊が障子へ手を掛けた、その瞬間……遠い異世界で、一人の少女の首に、冷たい刃が振り下ろされた。その人生が終わると同時に、新たな物語が静かに始まる。




