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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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書かれなかった本 4


相談室には、深い静けさが満ちていた。暖炉の火は小さく揺れ、ほうじ茶の湯気が言葉の隙間を埋めるようにゆっくりと漂っている。窓の外では、桜の花びらが雪の上へ静かに落ちていた。春と冬が重なり合うその景色は、どこか由紀の胸の内に似ているようだった。由紀は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく何も言わなかった。言葉にするには、あまりにも長く胸の奥にしまい込んできた感情だったからだ。やがて、かすかに息を吐く。


「私の人生なんて…」


そこで一度、言葉が途切れる。由紀は視線を落としたまま続けた。


「誰にも読まれなくていい。ずっと、そう思っていました。」


その声には、強い否定も、悲鳴のような痛みもなかった。ただ長い年月をかけて自分に言い聞かせてきた、静かな諦めだけがあった。尊はすぐには答えない。ほうじ茶を一口飲み、湯呑みを机へ戻す。その所作はゆっくりで、由紀の言葉を急かさないための沈黙のようでもあった。そして穏やかな声で尋ねる。


「由紀さん、一つだけ聞いてもいいかな」


由紀は小さく頷いた。


「はい」


尊は少しだけ間を置いてから、静かに言う。


「図書館に並ぶ本は、有名な人だけが書いた本だけかな」


由紀は、思わず尊を見た。その問いの意味を測りかねたように、ほんの少しだけ目を瞬く。


「いいえ、もちろん違います。有名な作家もいます。名も知られていない作家もいます。小さな出版社の本もあります。自費出版の本だってあります。どの本も、誰かが大切に書いた一冊です」


尊は静かに微笑む。その笑みは答えを知っている者のものではなく、由紀自身に気づいてほしいと願う人のものだった。


「そうだよね。じゃあ、どうして由紀さんだけは違うと思ったの」


相談室が、ひときわ静かになる。由紀は答えられなかった。答えようとした瞬間、胸の奥にあったはずの言葉が形を失ってしまったからだ。尊は責めない。ただ、由紀の沈黙ごと受け止めるように続ける。


「本ってね、売れるためだけにあるわけじゃない。誰か一人の心へ届くだけでも、その本には意味がある。君は、ずっとそう信じて働いてきた」


由紀はゆっくり頷いた。その頷きは小さかったが、確かに重みがあった。


「はい」


尊はその返事を受けて、さらに静かに言う。


「じゃあ、人生も同じじゃないかな」


その瞬間、由紀の瞳がわずかに揺れた。胸の奥に、見えない波紋が広がる。尊は続ける。


「誰か一人でもその人と出会って、その人の人生が少しでも変わったなら、その人生には十分意味があると思う」


暖炉の火が、ぱち、と小さく鳴った。その音だけが、相談室に落ちる。由紀は視線を落としたまま、しばらく動かなかった。自分の中で何かが揺れているのが分かる。けれど、それが何なのか、まだ言葉にならない。


「私は…」


ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。


「何か残せたのでしょうか」


その問いは、長い間誰にも向けられなかったものだった。尊はすぐには答えない。答えを急げば、この問いの重さを取りこぼしてしまうと知っているからだ。代わりに、少しだけ目を細めて笑う。


「僕ね…今日、由紀さんの話を聞いて、図書館へ行ってみたくなった」


由紀は驚いて顔を上げた。


「え?」


尊は穏やかに続ける。


「本を借りて、誰かが勧めてくれる本を読んで、静かな時間を過ごしてみたい。そんな場所を守ってくれた人がいたんだって…今日、初めて知った」


その言葉は、由紀の胸の奥へ静かに落ちていく。波紋のように、ゆっくりと広がっていく。尊は微笑んだまま、はっきりと言った。


「それだけでも、君の人生は…もう僕へ届いている」


由紀は何も言えなかった。喉の奥が熱くなり、目の奥も熱くなる。けれど、涙はまだ落ちなかった。その代わりに、胸の奥で何かがほどけていく。


「私は、本を貸していただけです」


ようやく出た声は、かすれていた。尊は静かに首を横へ振る。


「違う。君は人へ物語を届けていた。悲しい日に、希望を。寂しい日に、寄り添う言葉を。迷っている日に、前を向く勇気を。本を通して届け続けていた」


相談室には、また静寂が戻る。だが今度の沈黙は、先ほどまでとは違っていた。何もない空白ではない。言葉にならない感情が、確かにそこに満ちている。由紀の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。それは悲しみだけの涙ではなかった。長く閉じていた扉が、少しだけ開いた音のようでもあった。


「私は、そんなふうに考えたことがありませんでした」


尊は優しく笑う。


「由紀さん。君は、何万冊もの本を守ってきた。でも本当に守っていたのは、人の人生だったんだ」


その言葉が落ちたあと、相談室は長い沈黙に包まれた。由紀は涙を拭おうともしないまま、ただ目を閉じる。図書館のカウンター、返却口に積まれた本、静かな閲覧室、読み聞かせを聞いて笑う子どもたち、閉館後の誰もいない書架の間を歩いた夜、退職の日に受け取った小さな花束。


『長い間ありがとうございました』


あの日の言葉が、今になってようやく胸へ戻ってくる。その一つひとつが、ただの記憶ではなかったのだと初めて分かる。自分は何も残していないと思っていた。けれど覚えている顔がある、覚えている声がある、覚えている本がある。そして、覚えている人たちの時間がある。それは確かに自分がそこにいた証だった。由紀はゆっくりと目を開けた。涙で滲む視界の向こうで、尊が静かに待っている。


「私の人生も……」


声はまだ震えていた。けれど、もう先ほどまでの諦めはない。


「一冊の本なのでしょうか」


尊は、いつもの穏やかな笑顔で頷いた。


「うん。誰にも読まれなくていい人生なんて、一冊もない」


その一言が静かな相談室へ、やわらかく、しかし確かに響いた。由紀はしばらく動けなかった。ただ、その言葉を胸の奥で何度も反芻する。誰にも読まれなくていい人生なんて、一冊もない。その意味が、少しずつ、少しずつ、自分の中へ染み込んでいく。


やがて由紀は、涙を拭いながら小さく笑った。その笑顔は相談室へ来た時よりも、ほんの少しだけ温かかった。窓の外では、桜の花びらが雪の上へ静かに舞い続けていた。けれど、もうそれはただの春と冬の交わりではなかった。白い雪は、これまで由紀が「何も残していない」と思い込んできた静かな空白のようであり、そこへ落ちる桜は、誰かの心に確かに届いていた言葉や手渡してきた本のようだった。見えないと思っていたものは、消えていたのではない。ただ、白の上では目立たなかっただけだ。ひとひらの花びらが雪に触れるたび、そこに淡い色が宿る。


由紀の人生もまた、そうだったのだろう。誰にも読まれなくていいと思っていた一冊は、すでに幾人もの心の中で、静かに頁をめくっていた。由紀はそのことを、ようやく知った。そして知った瞬間に、胸の奥の雪が少しだけ解けた。桜は散っていくのではない。雪の上に落ちて、なおそこに咲いている。その景色を見つめながら、由紀はもう一度だけ、静かに息を吐いた。今度の呼吸は、さっきより少しだけ深かった。


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