書かれなかった本 3
相談室には、静かな時間が流れていた。暖炉では小さな炎が揺れ、ほうじ茶の香ばしい香りがゆっくりと部屋を満たしている。窓の外では、桜の花びらが雪の上へ舞い降り、その向こうでは若葉が風に揺れていた。由紀は湯呑みを見つめたまま、小さく息を吐く。
「私自身の人生だけは、誰にも読まれなくていいと思っていたんです」
その声には、不思議なくらい穏やかな諦めが滲んでいた。尊は何も言わない、静かに耳を傾ける。人生には、自分の歩幅でしか語れない時間があることを知っているからだ。由紀はゆっくりと話し始める。
「司書の仕事は、本当に忙しい毎日でした。朝は返却された本を棚へ戻して、新しく入った本を登録して、開館すれば利用者の方をご案内して、閉館後は本の修理。気が付けば、一日が終わっていました」
少しだけ笑う。
「でも、その忙しさが好きでした。毎日、誰かの役に立てる気がしたからです。」
相談室には暖かな空気が流れている。
「気付けば、三十年近く図書館で働いていました。小学生だった子どもが大学生になって、親になって、今度は自分の子どもを連れて来る。そんな光景も珍しくありませんでした」
由紀は少し目を細める。
「『先生。あの時紹介してもらった本、今でも持っています』そう言われることもありました。司書なのに、先生って呼ばれるんです」
少し照れくさそうに笑う。
「私はそのたびに『嬉しいです。ありがとうございます』と頭を下げていました」
尊も穏やかに笑った。
「嬉しかった?」
「はい。本当に嬉しかったです」
由紀は静かに頷く。
「私は、たくさんの人生を見てきました。夢を叶えた人、大切な人を失った人、新しい家族ができた人、病気と闘っていた人。皆さん、本を通して人生を歩いていました」
少し間を置く。
「ある女性が『主人が亡くなってから、毎日ここへ来るんです』そう話してくださいました。私は何も言えませんでした。ただその方の隣へ、一冊の本を置きました。その方は何日もかけて読み終えて『また明日も来ます』そう笑って帰られたんです」
由紀は小さく微笑む。
「私は司書で良かった。何度も、そう思いました」
暖炉の火が、小さく揺れる。
「でも…」
その一言で空気が少し変わる。
「図書館には閉館時間があります。利用者の方は帰ります。本も棚へ戻ります。でも私は、一人で家へ帰るだけでした」
由紀は静かに目を伏せる。
「結婚はしませんでした。仕事が忙しかった…それもあります。でも気付いたら、そのままでした。子どももいません。家族と呼べる人も、もう誰もいませんでした」
相談室には静かな沈黙が流れる。尊は何も口を挟まない。由紀は、自分の言葉を探している。
「私は本棚に並ぶ本を見るたび、思っていました。この一冊一冊には、誰かが人生を懸けて書いた物語がある。読む人がいて、泣く人がいて、笑う人がいる。でも私の人生には、そんな価値なんてない。誰にも読まれなくていい…そう思っていました」
その言葉には、自分を卑下する響きはなかった。ただ、静かな事実として受け入れてしまっているようだった。
「私は誰かの本を守る仕事でした。それだけで十分、主役じゃなくていい。私の人生は目立たなくていい。最後まで、誰にも知られなくていい」
由紀は湯呑みへ視線を落とす。ほうじ茶の水面が、小さく揺れていた。
「図書館には、何万冊もの本があります。でも一冊だけ、誰にも読まれない本があっても。困る人はいません。私は、そんな一冊でいいと思っていました」
長い沈黙。窓の外では、一枚の紅葉が池へ落ちる。波紋が静かに広がっていく。尊はその景色を見つめながら、静かに湯呑みを机へ置いた。まだ何も言わない。答えを急ぐ場所ではない。由紀自身が、自分の人生を見つめる時間だからだ。やがて由紀は、小さく笑った。
「変ですよね。毎日、誰かの人生には価値があります。そう思って働いてきたのに自分だけは、その中へ入れていなかった」
その笑顔は、とても寂しかった。尊は何も言わない。ただ、湯気の向こうで静かに目を伏せる。言葉が届くより先に、沈黙がそっと肩を並べるような、そんな間だった。由紀もまた、湯呑みを両手で包んだまま動かない。ほうじ茶の香りはまだそこにあるのに、もう少しで消えてしまいそうなほど淡く、やさしく、部屋の隅へ溶けていく。相談室には、優しい静寂だけが流れていた。まるで閉じられた本の頁のあいだに、まだ読み終えていない余白が、そっと挟まったままになっているように。




