書かれなかった本 2
相談室には、穏やかな静けさが流れていた。ほうじ茶の湯気が、ゆっくりと二人の間を漂う。暖炉では小さな炎が揺れ、窓の向こうでは桜が雪の上へ静かに舞い降りていた。由紀は湯呑みを両手で包み、小さく息を吐く。
「……落ち着く香りですね」
尊は穏やかに微笑んだ。
「そう感じたなら、今の君に必要なお茶なんだろうね」
由紀は静かに頷く。しばらく湯気を見つめたあと、ゆっくりと口を開いた。
「私は本が大好きな子どもでした。外で遊ぶより、図書館へ行く方が好きだったんです」
少し照れくさそうに笑う。
「友達からは『また本読んでる』なんて、よく笑われました。でも本を開くたび、知らない世界へ行ける気がして…私は、それが嬉しかった」
尊は静かに耳を傾けている。
「学校が終わると、まっすぐ図書館へ向かいました。閉館時間まで本を読んで、司書さんに『また明日ね』って声を掛けてもらう。それが子どもの頃の一番幸せな時間でした」
由紀の瞳には、懐かしい景色が映っているようだった。
「高校生になった頃、初めて思ったんです。私も本に囲まれて働きたい。司書になろう。そう決めました」
相談室には静かな時間が流れる。暖炉の火が、小さくぱちりと音を立てた。
「大学で司書資格を取りました。卒業して、市立図書館へ勤めることになった日。嬉しくて…開館前の誰もいない図書館を、一時間くらい歩き回ってしまいました」
尊は小さく笑う。
「夢が叶った日だったんだね」
「はい。本当に幸せでした」
由紀も微笑んだ。
「司書の仕事って、本を貸すだけだと思われがちなんです。でもそれだけじゃありません。新しい本を選んで、傷んだ本を直して、迷っている人へ本を紹介して、子どもたちへ読み聞かせをして。毎日、本と人を繋ぐ仕事でした」
尊は静かに頷く。
「素敵な仕事だ」
由紀は少しだけ照れたように笑う。
「ありがとうございます。でも一番好きだったのは、本を探している人のお手伝いでした」
少し間を置く。
「学生さんが『勉強で使う本はありますか』って聞きに来る。お母さんが『子どもが本を好きになる一冊を探しています』って相談してくださる。年配の方が『昔読んだ本をもう一度読みたい』そう話してくださる。その度に一緒に本棚を歩くんです。本を探しながら、自然と人生のお話になることもありました」
由紀は静かに目を細めた。
「ご主人を亡くされた方が『寂しくて眠れないんです』そう話してくださいました。私は一冊の小説をお渡ししました。数週間後、その方が『ありがとう。少しだけ前を向けました』そう言ってくださったんです」
ほうじ茶を一口飲む。香ばしい香りが、ゆっくりと胸へ広がっていく。
「受験生の男の子が『本を読む時間なんてありません』って言うんです。だから私は『五分だけでも読める本がありますよ』そう言って短編集をお渡ししました」
由紀は優しく笑う。
「春になって、その子が大学の合格通知を見せに来てくれました。『先生。あの本のおかげで、最後まで頑張れました』って…私は先生じゃないんですけど。その一言が、とても嬉しかった」
相談室には穏やかな空気が流れる。尊は何も急がせない。由紀の人生を、そのまま受け止めている。由紀は窓の外の四季庭を見つめた。
「図書館には、毎日いろいろな人が来ます。嬉しい日に、悲しい日に、誰にも話せない日に、本を開く人がいる。私は、そんな姿を何度も見てきました。だから本は紙の束じゃない。誰かの人生へ、そっと寄り添うものなんだと思うようになりました」
その声には、長年司書として歩んできた誇りが静かに滲んでいた。少しだけ沈黙が流れる。由紀は湯呑みをそっと机へ置いた。
「気がつけば私は本を読むことより、誰かへ本を届けることの方が好きになっていました」
その笑顔は、とても穏やかだった。尊も嬉しそうに微笑む。
「君は本を守っていたんじゃない。人の時間を守っていたんだね」
由紀は少し驚いたように目を丸くする。それから静かに笑った。
「……そうだったのかもしれません」
その言葉とともに、相談室には柔らかな静寂が戻る。窓の外では、一枚の桜の花びらが雪の上へ舞い降りた。その静かな景色を見つめながら、由紀は再び口を開いた。
「でも私自身の人生だけは、誰にも読まれなくていいと思っていたんです」
その一言は、まるで長く閉じていた本の背表紙を、そっと指先でなぞるような響きだった。由紀は湯呑みの縁に指先を添えたまま、視線を落とす。
「本を読むことも、誰かへ本を届けることも好きでした。けれど自分のことだけは、本にするほどの人生じゃないと…ずっと思っていました」
言い切ったはずなのに、最後の語尾だけがほんの少し揺れた。それは迷いというより、もっと静かで、もっと深いものだった。長いあいだ胸の奥にしまってきた感情が、言葉になる直前でかすかに震えているような。尊は何も言わない。ただ静かに、その言葉を受け止めている。由紀は小さく息を吐いた。
「誰かの役に立てたなら、それで十分だと。自分の人生は、誰かに見せるものじゃないと…そう思っていたんです」
そう言いながら、由紀は自分でも気づかないほどわずかに唇を結んだ。本当にそう思っていた。そう言い切れるはずだった。けれど胸のどこかで、言葉にしきれない何かが静かに軋んでいる。それは寂しさとも違う。後悔とも少し違う。ただ誰にも触れられないまま置き去りにしてきた時間の重みが、今になって指先へ滲んでくるようだった。
相談室には、ほうじ茶の香りだけが静かに満ちている。尊はようやく、ほんの少しだけ目を細める。けれど、何も問わない、何も断じない。ただ、その一文の奥にあるものを、静かに受け止めている。窓の外では、桜の花びらが雪の上に落ちたまま、風に押されることもなく、白の上で淡く色を残していた。由紀はその景色を見つめながら、もう一度だけ、今度はほとんど聞こえないほどの声で呟いた。
「……本当に、そう思っていたんです」
その声は、確かにそう言っていた。けれど、その奥には、言い切ったあとにだけ残る沈黙があった。誰かに否定してほしかったわけではない。ただ、そう思い込むことでしか守れなかったものが、きっとあったのだろう。由紀はそれ以上、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。あるいは言葉にしてしまえば、もう戻れなくなる気がしたのかもしれない。相談室には、答えのない静けさだけが残っていた。




