描けなかった面影 4
相談室には、深い静けさが流れていた。暖炉の火は小さく揺れ、窓の外では四季庭が、ひとつの記憶のように息づいている。桜は春の名残を散らし、その向こうでは雪が音もなく降り続ける。若葉は光を受けてやわらかく揺れ、紅葉は遠い秋の色を静かに抱いたまま枝先に残っていた。季節は本来、順に巡るものだ。けれどこの庭では、過ぎたはずの時間も、まだ来ていない時間も、同じ場所に重なっている。
エリアスにはそれが、記憶そのもののように思えた。思い出は一直線には並ばない。春の匂いの中に冬の冷たさが混じり、秋の色の奥に夏の光が残る。忘れたと思ったものほど、別の季節のかたちで胸の奥に沈んでいる。珈琲の湯気だけが、ゆっくりと二人の間を漂っていた。エリアスは視線を落としたまま、小さく息を吐く。
「私は妻を忘れたのでしょうか。だから顔だけ思い出せなくなったのでしょうか」
その声は、長い年月をひとりで抱え続けてきた痛みそのものだった。思い出そうとするたびに、胸の奥がきしむ。描こうとするたびに、何か大切なものを自分の手で壊してしまうような気がした。忘れたのではない、忘れたくなかった。それなのに、思い出そうとすればするほど、輪郭だけが遠ざかっていく。
残っているのは、声と、温度と、仕草と、笑い方だけ。なのに顔だけが…なぜ、いちばん大切だったはずの面影だけが、白く抜け落ちてしまったのか。尊はすぐには答えない。静かに珈琲を一口飲み、カップを机へ戻す。それから穏やかに尋ねた。
「エリアスさん、一つだけ聞いてもいいかな」
エリアスはゆっくり頷く。
「はい」
「奥さんは、どんな人だった?」
エリアスは少し驚いたように尊を見た。
「顔ではなくて、その人のことを聞かせてほしい」
その言葉に、エリアスの胸の奥で、何かが静かにほどけた。思い出せない顔を追いかけるのではなく、その人そのものを辿ればいいのだと、初めて言われた気がした。記憶は、失われた部分を責めるためにあるのではない。残っているものを確かめるためにあるのだと、四季庭の重なり合う景色がそっと教えてくれる。相談室に静かな時間が流れる。やがてエリアスは、小さく笑った。
「優しい人でした」
言葉にした瞬間、胸の奥にしまっていた記憶が、ひとつずつ灯りのように浮かび上がる。
「花が好きで…春になると、庭いっぱいに花を植えていました」
土に触れる指先、風に揺れる髪、花の名前をひとつひとつ確かめるように、嬉しそうに笑っていた横顔。春の庭は、いつも彼女の笑顔から始まっていた。桜が咲くたび、エリアスはその笑顔を思い出そうとしていたのかもしれない。けれど思い出そうとするほど春の色だけが強くなり、肝心の面影は遠のいていった。
「雨の日も好きでした。窓を開けて『雨の音って綺麗ですね』…そう言って笑う人でした」
あの声、あの柔らかな笑み。思い出そうとするのではなく、ただ耳を澄ませるようにすると確かにそこにある。失われたのではない。胸の奥の、もっと深い場所に沈んでいただけなのだと、エリアスは気づき始めていた。少しだけ目を細める。
「珈琲は少し苦手で、いつも砂糖を二つ入れていました。本を読む時は、必ず膝掛けを使う人でした。寒がりだったんです」
その一つひとつが、ただの習慣ではないことを今なら分かる。あの人は、いつも自分の世界を少しだけ柔らかくしていた。冬の冷たさを避けるためではなく、日々をやさしく包むために。雪の季節を嫌うのではなく、その静けさの中で温もりを見つける人だった。相談室には穏やかな空気が戻ってくる。
「道で子どもを見つけると、必ず笑いかけていました。迷い猫を見つけた日は家へ連れて帰ろうとして、私が止める役でした」
エリアスは、少し照れくさそうに笑う。その笑みの奥には、もう悲しみだけではないものがあった。懐かしさ、愛しさ。そして、ようやく自分の記憶を信じてみようとする静かな勇気。
「料理は決して上手ではありませんでした。焦がしたパンも、塩を入れすぎたスープもら全部…今では懐かしい思い出です」
失敗した料理を前に、二人で顔を見合わせて笑ったこと。それを「失敗」と呼ぶには、あまりにも温かかったこと。エリアスはそこで初めて、自分が忘れていたのではなく、怖がっていたのだと知る。思い出せないことが怖かったのではない。思い出した先に、もう触れられない現実があることが怖かったのだ。だから顔だけが遠のいた。だから筆が止まった。だから何度描いても違うと感じた。尊は静かに頷く。
「好きだったんだね」
「はい。誰よりも、世界で一番」
エリアスは即座に答えた。迷いは一つもなかった。その答えだけは、何十年経っても揺らがない。尊は、ゆっくりと微笑む。
「だったら忘れたわけじゃない」
エリアスは静かに顔を上げる。尊は続けた。
「君は顔以外を、こんなにも覚えている。好きだった花、好きだった雨、珈琲の飲み方、笑い方、歩き方、優しさ。全部が君の中に残っている」
その言葉は、胸の奥に沈んでいたものをそっと掬い上げるようだった。エリアスの瞳が少しだけ揺れる。
「でも、顔だけが……」
その続きを言おうとして、言葉が途切れる。顔だけが思い出せない。それは喪失ではなく、喪失を恐れ続けた心が作った、ひとつの影だったのかもしれない。四季庭に春と冬が同じように在るように、彼の記憶にも、残っているものと隠れてしまったものが重なっていた。尊は小さく頷いた。
「人はね、一番失いたくないものほど失うことを怖がる。心は、その悲しみに耐えきれない時、自分を守ろうとすることがある」
相談室には静かな時間だけが流れる。エリアスはその言葉を、何度も胸の中で反芻した。守ろうとしていたのか…自分は妻を忘れたのではなく、失った痛みに耐えられず、面影の一部にそっと蓋をしていたのではないか。そう思った瞬間、長いあいだ自分を責め続けてきた何かが、少しだけほどけた。
「私は専門家じゃないから、本当の理由は分からない。でも忘れた人の話は、こんなに優しくできないと思う」
その言葉に、エリアスは静かに目を閉じた。胸の奥に熱いものがじわりと広がる。忘れていなかった、忘れたのではなかった。ただ怖かったのだ。思い出せない自分を責めることでしか、あの人を失った痛みに向き合えなかったのだ。長い年月…初めて、自分を責めることを少しだけやめられた気がした。
「私は…妻を忘れていないのでしょうか」
その問いは、確認ではなく、祈りに近かった。尊は穏やかに頷く。
「少なくとも今の話を聞いた僕は、そうは思わない」
暖炉の火が小さく揺れる。エリアスは両手を見つめながら、小さく呟いた。
「私は毎日、思い出そうとしていました。描こうとしていました。描けないたびに忘れてしまった、私が悪いんだ…そう思っていました。でも違ったのかもしれませんね」
その声には長く閉ざしていた扉が、ほんの少しだけ開いたような響きがあった。相談室には穏やかな沈黙が流れる。尊は静かに微笑んでいる。急いで答えを出す場所ではない。人生は自分自身の歩幅で受け止めるものだからだ。エリアスはゆっくりと珈琲を飲んだ。その温かさが、今は少しだけ胸に沁みる。
「先生…」
そう呼びかけてから、少し照れたように笑う。
「失礼しました、尊さん」
尊も笑う。
「うん、どうしたの」
エリアスは窓の外の四季庭を見つめた。桜が舞い、雪が降り、若葉が揺れ、紅葉が光を受けている。ひとつの庭に、いくつもの季節が同じように息づいていた。まるで、自分の中にある記憶のようだった。失ったと思っていたものも、消えたのではなく、別の形で残っているのかもしれない。春の花びらのように浮かぶ記憶もあれば、冬の雪のように静かに積もる記憶もある。若葉のようにまだ柔らかく息づくものも、紅葉のように色を変えながら残るものもある。
「もし、もう一度だけ妻に会えたなら…」
そこで一度、言葉が止まる。本当に願っていたことは、もっと静かで、もっとささやかなものだったからだ。
「私は…今度は絵なんて描かないかもしれません」
少し笑う。その笑みは諦めではなく、ようやく辿り着いた本音だった。
「ただ隣で同じ景色を見ていたい」
その言葉は、とても静かで。けれど、何十年も胸の奥にしまわれていたぶんだけ、深く、やわらかく、重かった。描くことよりも、残すことよりも…ただ同じ時間を、同じ空気を、同じ景色を分け合いたい。それだけでよかったのだと、ようやく気づいた。尊は何も答えない。その願いを急かさず、壊さず、ただ受け止めるように、穏やかに頷く。
窓の外では一枚の桜の花びらが風に乗り、雪の上へ静かに舞い降りた。その白の上に落ちた淡い紅が、すぐには消えず、しばらくそこに留まっている。まるで、言葉にならなかった願いの余韻のように。相談室には、優しい静寂だけが流れていた。




