↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
51/118

描けなかった面影 5


相談室には、深い静けさが流れていた。窓の外では、桜の花びらが雪の上へ舞い降り、その向こうでは紅葉が風に揺れている。暖炉の火は小さく揺れ、二つの珈琲から立ち上る湯気だけが、ゆっくりと二人の間を漂っていた。


エリアスは長い間、何も言わなかった。両手を膝の上に置いたまま、指先をそっと握りしめる。その手には、長い年月を絵筆と共に過ごしてきた者の癖が残っていた。乾いた皮膚、わずかに歪んだ爪先、そして、何かを掴もうとしても掴みきれなかったような、静かな震え。


「私は…」


喉の奥でひどく小さくなった声が、ようやく形になる。


「妻を忘れていなかった」


言葉にした瞬間、胸の奥に張りついていたものが、少しだけ剥がれ落ちる気がした。


「そう言っていただけて少しだけ、救われた気がします」


尊は穏やかに微笑む。


「よかった」


それだけだった。答えを押しつけない。慰めを急がない。人生を決めるのは、相談者自身だからだ。


しばらく静かな時間が流れる。


暖炉の薪が、ぱちりと小さく音を立てた。


その音に混じって、エリアスは自分の呼吸が少しずつ深くなっていくのを感じていた。胸の奥に溜まっていた冷たいものが、珈琲の温度に少しずつ溶かされていくようだった。やがてエリアスは顔を上げた。その表情は、相談室へ来た時よりも少しだけ穏やかだった。けれどその穏やかさは、何も失っていない者のものではない。失ったものを抱えたまま、それでも立ち上がろうとする人の顔だった。


「尊さん。私は、ようやく分かりました」


声は静かだったが、その奥には長い年月の重みがあった。


「描けなかったのは忘れたからではありません。失うことを認められなかったからなんですね」


尊は静かに頷く。


「そうかもしれないね。人の心は時々、優しすぎるくらい自分を守ろうとするから」


エリアスはゆっくりと目を閉じた。瞼の裏に、いくつもの記憶が浮かぶ。病室の白いカーテン越しに差し込む朝の光、庭へ花を植える妻の土で少し汚れた指先。砂糖を二つ入れた珈琲を、ふうふうと冷ましながら飲む横顔。雨の日、窓辺で本を読みながら静かに微笑んでいた姿。その一つひとつは触れればまだ温かいのに、顔だけがどうしても輪郭を結ばない。


思い出そうとするたび、胸の奥がきゅっと縮む。まるで、触れれば壊れてしまう薄い硝子を前にしているようだった。それでも、その人が確かに生きていたことだけは、胸いっぱいに残っていた。笑い声の高さも、歩く時の軽い足音も、袖口からふわりと香った石鹸の匂いも。冬の朝に、眠そうに目をこすっていた仕草も。顔は見えなくても妻という人の気配だけは、今もエリアスの内側で静かに息をしていた。


「私は、もう一度だけ描いてみようと思います」


その言葉は、震えていなかった。長い喪失の底から、ようやく自分の足で立ち上がった者の声だった。


「今度は顔を思い出そうとはしません。妻という人を描いてみたい」


その言葉には、長い年月をかけてたどり着いた静かな決意があった。失ったものを取り戻すのではない。失ったまま、それでもなお愛した人を描く。その覚悟が、エリアスの声を少しだけ強くしていた。尊は嬉しそうに笑う。


「きっと素敵な絵になる」


相談室には穏やかな空気が戻ってくる。暖炉の火が小さく揺れた。エリアスは珈琲を飲み干し、小さく息を吐いた。喉を通る最後の一口は、少し苦く、それでも不思議なほどやさしかった。胸の奥に残っていた冷えが、ゆっくりとほどけていく。


「尊さん、ありがとうございます」


尊は静かに頷く。


「うん。では、ここへ来た人には三つの道がある」


エリアスは静かに耳を傾ける。尊は穏やかな声で続けた。


「一つ、この異世界相談所で心が落ち着くまで過ごすこと。ここには時間がない。だから急ぐ必要もない」


その言葉は急かされることに慣れた心へ、そっと毛布をかけるようだった。


「二つ、輪廻の輪へ還り新しい人生を歩むこと。そして最後の一つ…」


尊はまっすぐエリアスを見つめた。


「少しだけ時を遡り、人生をやり直すこと。ただし未来がどう変わるかは誰にも分からない。変わってしまった未来について、僕は責任を取ることはできない」


相談室は静まり返る。エリアスは目を閉じた。もし人生をやり直せるなら、妻を救えたかもしれない。もっと一緒に生きられたかもしれない。もっとたくさん笑えたかもしれない。病室の窓辺で、もっと長く手を握っていられたかもしれない。最後に交わした言葉を、違う形で残せたかもしれない。そんな想いが、胸の奥で静かに揺れた。けれど、そのたびに別の声が重なる。妻なら、きっと言う。


『前を向いてください。あなたは未来を描く人でしょう』


その声は記憶の中のものなのか、それとも長い喪失の中で自分が作り出したものなのか、もう分からない。けれど、どちらでもよかった。その言葉が、今の自分を支えていることだけは確かだった。エリアスはゆっくりと目を開く。迷いは、もうなかった。


「私は輪廻の輪へ還ります」


尊は静かに頷く。エリアスは穏やかに笑った。その笑みには諦めではなく、ようやく受け入れられた静けさがあった。


「人生をやり直したら、私はまた妻と出会うことばかり探してしまいます。でも、それでは私が描いてきた景色まで、変わってしまう。妻はきっと、そんなことを望みません」


言葉を重ねるたび胸の奥にあった痛みが、少しずつ形を変えていく。失ったからこそ、残ったものがある。忘れたのではなく、抱え続けてきたものがある。それをようやく認められた。


「だから私は、この人生を大切なまま胸に抱いて進みます」


尊の表情が柔らかくなる。


「その選択、受け取った」


尊は静かに両手を合わせる。


ーパンッー


澄んだ柏手の音が、相談室へ優しく響いた。何もなかった空間に、一枚の古い木の扉が現れる。木目には長い年月が刻まれ、その隙間から柔らかな白い光が漏れていた。その光は眩しすぎずただ静かに、次の場所へ続いていることだけを知らせていた。その先に何があるのか、尊も知らない。エリアスは静かに立ち上がる。立ち上がった瞬間、膝の奥に残っていた重さが少しだけ軽くなるのを感じた。尊へ深く頭を下げる。


「ありがとうございました」


その声は、来た時よりもずっと落ち着いていた。


「こちらこそ。人生を聞かせてくれて、ありがとう」


エリアスは穏やかな笑みを浮かべ、扉へ向かって歩き出した。一歩ごとに、靴底が床を打つ音が静かに響く。その音は、もう迷いの音ではなかった。扉の前で、一度だけ四季庭を振り返る。桜、雪、若葉、紅葉。どの景色も美しかった。どの季節も妻と過ごした日々のどこかにあった気がした。


春の庭で花を植えたこと、夏の夕暮れに汗をかきながら笑ったこと、秋の風に吹かれながら美術館へ向かったこと、冬の朝に湯気の立つ珈琲を二人で分け合ったこと。顔は思い出せなくても、季節の匂いは覚えている。土の湿り気も雨上がりの石畳の冷たさも、彼女が笑った時に揺れた髪の柔らかさも。それらすべてが、妻という人の輪郭を別の形で今も支えていた。


「……行こう」


エリアスは小さく呟く。その声に、ふいに白い光がわずかに揺れた。振り返ると、そこに誰かの気配があった。はっきりとした輪郭ではない。ただ長い年月の奥で何度も見失い、何度も探し続けたものに似た、やわらかな影。風のようでもあり、記憶のようでもあった。エリアスは息を呑む。その影は、まるで微笑んだように見えた。けれど、それが妻だったのか、妻を思い続けた心が見せた幻だったのか、もう分からない。分からないままでも、よかった。


「……前を向いてくれて、嬉しいです」


声がした気がした。耳で聞いたのか、胸の奥で思い出したのかも分からない。エリアスの目が潤む。


「……君だったんだね」


そう口にしたのかどうかさえ、曖昧だった。ただ伸ばした手の先で、白い光がそっとほどける。指先に触れたのは温もりだったのか、それとも別れ際の残響だったのか。エリアスは涙をこぼしながら頷く。


「行こう」


その言葉は、自分自身へ向けたものにも聞こえた。白い光の向こうで、影はもう形を持たない。それでも、確かにそこにいたような気がした。白い光の中へ、静かに歩いていった。扉は音もなく閉じる。相談室には再び静寂だけが戻る。暖炉の火は変わらず揺れ、窓の外では桜が雪の上へ静かに舞い続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。