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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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描けなかった面影 3


相談室には、静かな時間が流れていた。窓の外では、桜の花びらが池へ舞い落ち、そのすぐ隣では雪が音もなく積もっていく。暖炉の火は小さく揺れ、珈琲の香りだけが部屋を優しく満たしていた。エリアスはカップを両手で包み込み、小さく息を吐く。


「幸せというものは、永遠ではありませんでした」


その一言だけで、相談室の空気が少しだけ静かになる。尊は何も言わない。ただ、穏やかな眼差しでエリアスを見つめている。エリアスは、ゆっくりと語り始めた。


「妻は病に倒れました。最初は風邪だと思っていました。少し休めば治ると…本人も笑っていました」


少しだけ目を伏せる。


「ですが病は思っていたよりもずっと深刻でした。日に日に身体は痩せていき、歩くことも難しくなっていったんです」


相談室には、暖炉の薪がはぜる小さな音だけが響く。


「私は画家でした。医者ではありません。どれだけ願っても、どれだけ祈っても、絵筆では人一人救えませんでした」


エリアスは、自分の両手を静かに見つめる。


「私は毎日、妻を描きました。病室の窓辺で笑う姿、本を読んでいる姿、眠っている横顔、少しずつ弱っていく姿も…全部描きました。忘れたくなかったんです。一日でも、一瞬でも、妻が生きていた証を残しておきたかった」


尊は静かに耳を傾ける。その表情は変わらない。評価もしない、慰めもしない。人生を語る時間を、ただ大切に守っている。エリアスは小さく笑う。


「妻は、よく笑う人でした。『そんなに描かなくても、私は逃げたりしませんよ』そう言って笑うんです。その時の声は少しかすれていて、でも窓から差し込む午後の光に触れると、頬のあたりがふっと明るくなるような笑い方でした。病室の消毒液の匂いの中で、彼女だけが春の庭みたいな匂いをしていたんです」


エリアスは、遠い記憶を手繰るように目を細める。


「私は『逃がしたくないんだ』そう返しました」


少しだけ照れたように笑う。


「すると妻は『じゃあ、私がおばあちゃんになっても描いてくださいね。しわだらけになっても、白髪になっても、きれいに描いてください』そう言って笑っていました」


相談室には穏やかな沈黙が流れる。その笑顔を思い出したのか、エリアスもほんの少しだけ微笑んでいた。


「…その約束は守れませんでした」


その声は、とても静かだった。


「ある朝、妻は静かに眠るように息を引き取りました」


長い沈黙。窓の外では、一枚の桜の花びらが雪の上へ落ちる。尊は何も言わない。その沈黙もまた、この相談室では大切な時間だった。エリアスは静かに続ける。


「葬儀が終わっても、私は毎日アトリエへ入りました。描こうと思ったんです。妻を……今まで描いてきた中で一番美しく、一番優しく、最高の一枚を」


エリアスはゆっくりと拳を握る。


「キャンバスを用意しました。新しい絵筆も買いました。一番好きだった絵具も並べました。そして、最初の一本を引こうとしたんです」


少しだけ息を止める。


「……描けませんでした」


尊は静かに目を細める。エリアスは首を横へ振る。


「技術ではありません。手も震えていませんでした。筆も動きました。でも顔だけが思い出せなかったんです」


その瞬間、彼の声はほんのわずかに掠れた。


「白いキャンバスの前に立つと、油絵具の匂いがいつもよりやけに強く鼻を刺してきました。リンシードオイルの甘い匂い、乾きかけた絵具の少し苦い匂い。それに混じって病室で嗅いだ消毒液の冷たい匂いまで、ふいに蘇ってきて…胸の奥が……ぎゅっと締めつけられたんです」


エリアスは視線を落としたまま続ける。


「目を閉じれば声は聞こえる。笑い声も、話し方も、手の温もりも覚えています。好きだった花も、好きだった珈琲も、好きだった音楽も。全部、全部覚えているんです。けれど瞼の裏に浮かぶはずの顔だけが、どうしても…ぼやけてしまう。朝の光を受けた頬の色も、笑った時に少しだけ上がる口元も、目尻にできた小さな皺も、そこにあったはずなのに触れられそうなほど近いのに…指先を伸ばすたび、霧みたいに消えてしまうんです」


エリアスの声が少しだけ震える。


「なのに一番大切だったはずの笑顔だけが…思い出せない。何枚描いても違う。また描いても違う。毎日、毎日描き直しました。一年、二年、十年。何十枚、何百枚、何千枚……描いても妻にならない」


相談室には、重い静けさだけが残る。エリアスはキャンバスを見つめているように、まっすぐ前を見た。


「私は画家なのに一番描きたかった人だけ、描けなくなってしまいました」


尊はゆっくりと珈琲を口へ運ぶ。何も答えない。答えを急ぐ場所ではないことを知っているからだ。エリアスは小さく息を吐いた。


「私は、ずっと考えていました。人は本当に忘れてしまう生き物なのでしょうか」


その問いは、尊へ向けられたものではなかった。何十年もの間、自分自身へ問い続けてきた言葉だった。相談室には、その余韻だけが静かに残っていた。


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