描けなかった面影 2
相談室には、穏やかな静けさが流れていた。暖炉では小さな炎が揺れ、窓の向こうでは桜の花びらが雪の上へ静かに舞い降りている。松平が淹れた珈琲から、柔らかな香りが立ちのぼっていた。尊はカップを手に取り、一口だけ口をつける。それから穏やかに微笑んだ。
「急がなくていい、今日は君の時間だから」
エリアスは静かに頷く。両手で珈琲を包み込み、その温もりを確かめるように小さく息を吐いた。
「……不思議ですね、この珈琲。昔、妻と通っていた喫茶店の味によく似ています」
尊は嬉しそうに微笑む。
「そう感じたなら、今の君に必要な一杯なんだろうね」
エリアスは少しだけ目を細めた。その表情には、懐かしさと優しさが静かに滲んでいた。しばらく珈琲の湯気を見つめたあと、ゆっくりと口を開く。
「私は……幼い頃から絵ばかり描いていました。紙がなければ庭へ、庭が駄目なら木の板へ。父には何度も叱られました」
少しだけ笑う。
「ですが母だけは違いました。『好きなだけ描きなさい。あなたの描く世界は、とても優しいから』そう言ってくれたんです」
エリアスの瞳が、どこか遠くを見つめる。
「私は、その言葉だけで十分でした。誰かに勝ちたかったわけでも、有名になりたかったわけでもありません。ただ目の前にある美しい景色を、そのまま残したかった」
尊は何も言わない。人生には…自分の歩幅でしか語れない記憶があることを知っているからだ。エリアスは続ける。
「学校を選ぶ時、迷わず美術学校へ入りました。朝から晩まで絵を描きました。風景、街並み、花、人物、光、影。世界には、描きたいものが溢れていました。一日が二十四時間では足りない…本気でそう思っていました」
相談室には静かな時間が流れている。暖炉の火が、ぱちりと小さく音を立てた。
「卒業後、小さな個展を開く機会をいただきました。来てくださる方なんて、ほとんどいないと思っていたんです」
少し照れくさそうに笑う。
「ところが一人だけ、何時間も作品の前から動かない女性がいました」
エリアスの表情が、ふっと柔らかくなる。
「彼女は美術館の学芸員でした。一枚見るたびに『この空の色、気持ちいいですね。この光は朝でしょうか。風まで聞こえてきそうです』そんなふうに、絵の中へ入ってしまうような感想を話してくださる人でした」
尊は穏やかに微笑む。
「嬉しかった?」
「はい、とても」
エリアスは少し恥ずかしそうに笑った。
「私は初めて描きたいと思った相手を、描くことができなかったんです」
尊は首を傾げる。
「どうして?」
エリアスは照れくさそうに笑う。
「見惚れてしまったからです。鉛筆を持っても、何も描けませんでした。彼女が笑うたびに、その笑顔ばかり見てしまって」
相談室に、小さな笑いが広がる。尊も思わず笑う。
「それは困ったね」
「ええ、画家失格です」
エリアスも笑った。
「それから彼女は何度も個展へ来てくださいました。私は美術館へ通うようになりました。絵の話をして、本の話をして、美術館を歩いて、景色を眺めて…気づけば、隣にいることが当たり前になっていました」
その声は、とても穏やかだった。
「ある日、彼女が言ったんです。『あなたは風景を描く時も素敵だけれど、人を見ている時の方が、もっと優しい顔をしていますね』」
エリアスは少し目を伏せる。
「あの日、初めて誰かに私自身を見てもらえた気がしました」
相談室には静かな余韻が流れる。尊は静かに珈琲を飲み、何も急がせない。エリアスは穏やかな笑顔のまま続けた。
「私は、彼女へ結婚を申し込みました。返事は『はい』…その一言だけでした」
少し照れくさそうに笑う。
「それだけで十分でした。私たちは夫婦になりました」
窓の外では、桜の花びらが風に乗って舞っている。雪の上へ、そっと落ちる。
「私は毎日のように妻を描きました。朝の笑顔、読書をしている横顔、庭へ水をあげる姿、眠っている顔、何気ない日常ほど描いておきたかった。幸せはきっと、こういう時間の中にあるのだと思っていたからです」
エリアスは、ゆっくりと珈琲へ視線を落とした。その瞳に映る湯気が、小さく揺れる。
「ですが幸せというものは、永遠ではありませんでした」
その一言だけで。相談室の空気が、少しだけ静かに変わった。




