描けなかった面影 1
四季が一つの庭で静かに息づいていた。桜の花びらが風に舞い、その足元には雪が淡く積もっている。青々とした若葉が陽射しを受け、紅葉は池の水面へゆっくりと舞い落ちる。竹林を抜ける風が葉を揺らし、鹿威しが澄んだ音を響かせた。
ーコーンー
異世界相談所。今日も時間だけが、この場所を避けるように流れている。縁側では、一人の青年が湯呑みを片手に四季庭を眺めていた。尊である。穏やかな春風を頬に受けながら、お茶を一口飲む。
「今日も綺麗だね」
誰に言うでもなく呟く。その少し後ろでは、少女が静かに茶器を片付けていた。長い黒髪を後ろでまとめ、丁寧な所作で一つひとつの湯呑みを磨いている。松平だった。尊は庭を眺めたまま、小さく笑う。
「松ちゃん。今日は来るかな」
松平は手を止めることなく答える。
「きっと、お越しになります」
「そうだね」
尊は安心したように頷いた。相談所へ来る者は、自分ではここを選べない。だからこそ誰かが来るということは、その人が人生を語る準備ができたということだった。穏やかな静けさが流れる。暖かな風、鹿威し、風鈴、そしてー…カラン、玄関の鈴が小さく鳴った。尊はすぐに微笑む。
「来たね」
松平は静かに一礼する。
「行ってまいります」
少女は静かに廊下を歩き、受付の奥へ姿を消した。尊は急がない。相談者がここへ来るまでの時間も、大切な人生の一部だからだ。湯呑みを口元へ運び、四季庭を見つめる。
「今日は、どんな人生なんだろう」
小さく呟いた声は、春風へ溶けていった。
受付の奥、一枚の扉が静かに開いていた。その先には、一つの部屋がある。相談所が、その人のためだけに選んだ『一番安心できる場所』柔らかな午後の陽射し、油絵具の香り、木の床、壁一面に並ぶキャンバス、使い込まれたイーゼル、静かなアトリエだった。その中央で、一人の男性が椅子に腰掛けたまま眠っている。やがて、ゆっくりと瞼が開いた。
「……あれ」
小さく呟き、辺りを見回す。見覚えがある。いや正確には、よく似ていた。若い頃から何十年も過ごした、自分だけのアトリエに。窓から差し込む光、乾いた絵具の匂い、木製の机、床へ置かれた筆、すべてが懐かしい。だが同時に、ひどく違和感があった。胸の奥が、妙にざわつく。この場所を知っている気がする。何度も立ってきたはずの床、何度も握ってきたはずの筆。それなのに…ひとつだけ、どうしても思い出せないものがある。男性は立ち上がる。そっと机へ触れる。
「……落ち着く」
自然と笑みがこぼれた。
「こういう匂いは、昔にも嗅いだ気がする。けれど、どこでだったかは……少し曖昧だな」
言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。曖昧…その響きが、妙に耳に残る。まるで何か大切なものの輪郭だけが、指の間からこぼれ落ちていくようだった。男性は机の上に置かれた一枚の紙を見つめる。白いままの紙、何も描かれていない。なのに、そこへ筆を置けば、何かを描ける気がした。けれど同時に何を描こうとしていたのかが、どうしても思い出せない。
「……誰か」
小さく呟いた声は、途中で途切れた。誰か、の先が出てこない。名前が喉元まで来ているのに、掴めない。胸の奥に、言葉にならない空白がある。ここなら何時間でも絵を描いていられる…そんな気がした。だがその安心感の底に、説明のつかない喪失感が沈んでいる。何かを忘れている。忘れてはいけない何かを…その時だった。
ーコン、コンー
静かなノックが響く。
「失礼いたします」
穏やかな声とともに、扉が開いた。そこには一人の少女が立っていた。整えられた長い黒髪、感情を大きく表へ出さない穏やかな表情。けれど、その瞳だけはどこまでも優しかった。少女は静かに一礼する。
「お目覚めでしょうか」
男性は少し驚きながら頷いた。
「ええ」
少女は柔らかく微笑む。
「私は松平と申します。異世界相談所へようこそ」
異世界相談所、初めて聞く名前だった。けれど不思議と恐怖はなかった。むしろ、この少女の声を聞いているだけで、胸の奥にあった張りつめたものが少しずつほどけていく。だが同時に、男性は気づく。この少女を見た瞬間、なぜか胸の奥がひどく疼いた。初対面のはずなのに、どこかで会ったことがあるような気がする。いや会ったことがある、というより…会わなければならなかったような……そんな、言葉にならない感覚だった。松平は静かに続ける。
「こちらへ、ご案内いたします」
男性は小さく頷き、少女の後を歩いた。アトリエを出る。柔らかな風が頬を撫でる。歩みを進めるたび、景色が少しずつ変わっていく。やがて視界が開けた。そこには、桜、雪、若葉、紅葉。すべての季節が、一つの庭で静かに息づいていた。男性は思わず足を止める。
「……美しい」
松平は振り返る。
「相談所の四季庭でございます。ここには時間がございません。そのため、四季も共に生きております」
男性はしばらく庭を見つめていた。やがて、小さく笑う。
「まるで一枚の絵ですね」
その言葉に、松平も穏やかに微笑んだ。
「そのように仰る方は、多くいらっしゃいます」
二人は静かに歩き始める。やがて、一枚の障子戸の前で松平が足を止めた。
ーコン、コンー
「尊様、相談者様をお連れいたしました」
部屋の中から、穏やかな声が返る。
「どうぞ」
松平は静かに障子を開けた。
「失礼いたします」
相談室には、暖かな空気が流れていた。丸い木の机、湯気の立つ二つの珈琲、暖炉の小さな炎。そして柔らかな笑顔で待つ、一人の青年。
「いらっしゃい」
その笑顔だけで、男性の肩から少し力が抜けた。自然と頭を下げる。
「……エリアス・ローレンと申します。画家をしておりました」
尊は穏やかに頷く。
「ようこそ、エリアスさん。今日は君の時間だ。ゆっくりでいい、君の人生を聞かせて」
その言葉に、エリアスはゆっくりと息を吐いた。胸の奥にあった何かが、静かにほどけていく。珈琲の湯気が、二人の間で淡く揺れた。その向こうに、ふと誰かの面影がよぎる。けれど、まだ輪郭は見えない。ただ確かに忘れてはいけない何かが、そこにある気がした。




