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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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止まった時計 5


相談室には、静かな時間が流れていた。


コチ……

コチ……

コチ……


壁に掛けられた時計は、変わらぬ速さで時を刻み続けている。アルノーは今はもう冷めかけたコーヒーカップを見つめたまま、小さく息を吐いた。


「……情けない話ですね。私は時計を直すことだけが取り柄でした。だから妻の時間を止められなかった自分を、どうしても許せなかった」


尊は静かに首を横へ振る。


「アルノーさん」


その穏やかな声に、アルノーは顔を上げる。


「あなたは本当に、時計を直していたのでしょうか」


思いがけない問いだった。アルノーは少し考え、小さく笑う。


「もちろんです。それが私の仕事でしたから」


尊は優しく微笑む。


「そうでしょうか。修理を終えた時計を受け取った人たちは、どんな顔をしていましたか」


アルノーは自然と遠い日を思い出していた。百年前の柱時計を抱きしめて泣いた老人、祖父の形見の懐中時計を胸に当てて笑った少女、結婚祝いの置時計を大切そうに抱える若い夫婦。


「……皆さん、笑っていました。安心したように、嬉しそうに」


尊は静かに頷く。


「直ったのは時計だけだったでしょうか」


アルノーは息を呑む。言葉が出ない。尊は続ける。


「その人たちは時計が動いたから笑ったのでしょうか。それとも大切な思い出が、また未来へ進み始めたから笑ったのでしょうか」


アルノーの胸に、父の言葉がよみがえる。


『時計は時間を刻む道具じゃない。人の想いを未来へ運ぶ道具なんだ』


その意味が、今になってようやく分かった気がした。アルノーは目を閉じる。


「父は最初から知っていたんですね。私はずっと、歯車ばかり見ていました。でも本当に直していたのは、人の心だった」


尊は何も言わない。ただ、穏やかに微笑んでいた。アルノーは続ける。


「私は妻の時間を止められなかった。それは事実です。でも、だからといって妻との時間まで止まってしまう必要は…なかったんですね」


窓の向こうでは、桜の花びらが風に乗り、雪景色へ舞い落ちていく。


「彼女は『そんな顔をしないで』そう言いました。笑ってほしかったんです、私に。生きてほしかった、前へ進んでほしかった」


アルノーは静かに涙を拭う。その涙は、悲しみだけではなかった。


「私はずっと妻を置いて進むことが裏切りだと思っていました。でも違う。思い出を抱えたまま歩くことが、生きるということなんですね」


尊は、優しく頷いた。


「はい」


その一言だけで十分だった。相談室に、穏やかな静寂が戻る。時計の音だけが、静かに響く。


コチ……

コチ……

コチ……


しばらくして、尊は静かに姿勢を正した。


「アルノーさん。この異世界相談所へ来られた皆さんには、三つの選択があります」


アルノーも静かに頷く。


「一つ、ここで心が落ち着くまで過ごすこと。二つ、輪廻の輪へ還り新しい命として生まれ変わること」


尊はアルノーをまっすぐ見つめた。


「そして三つ、少しだけ人生をやり直すこと」


アルノーは静かに目を閉じた。父の笑顔、工房、時計の音、妻の微笑み、花の香り。すべてが胸の中で優しく重なっていく。やがて目を開き、穏やかに笑った。


「……やり直したいです。今度は失った時間を悔やむためじゃなく、誰かと過ごす一瞬を、ちゃんと抱きしめるために」


尊の笑顔が、少しだけ深くなる。


「はい。きっと素敵な人生になります」


松平も静かに頭を下げた。尊は立ち上がる。


ーパンッー


静かな柏手が相談室へ響いた。何もなかった空間に、古い木の扉がゆっくりと姿を現す。扉の向こうには、どこまでも柔らかな光が広がっていた。アルノーはその前まで歩く。ふと立ち止まり、振り返った。


「尊さん」

「はい」


アルノーは少しだけ笑う。


「あなたに会えて、よかった」


尊は目を細めた。


「僕もです」


それだけで、十分だった。アルノーは深く一礼する。


「父に、妻に、今度こそ胸を張って会ってきます」


尊は静かに頷く。


「いってらっしゃい」


その一言は、送り出す者の言葉であり、帰りを願う者の祈りでもあった。アルノーはもう一度だけ笑い、光の中へ歩き出す。その背中が白く包まれ、やがて見えなくなる。扉は静かに閉じた。相談室には再び静寂が戻る。


コチ……

コチ……

コチ……


尊は壁の時計を見上げ、小さく微笑んだ。


「止まっていた時間も、きっと…また動き始めるね」


障子の向こうでは、四季庭を渡る風が桜を舞い上げていた。その花びらは、未来へ向かうように、静かに空へと舞い上がっていった。


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