止まった時計 4
相談室には、静かな時計の音だけが流れていた。
コチ……
コチ……
コチ……
アルノーは、その音へ耳を澄ませながら、小さく息を吐いた。
「私は時計なら、何でも直せると思っていました」
その言葉には、誇りではなく、自分を責めるような響きがあった。
「どれほど古い時計でも、部品がなくても、時間さえかければ必ず動き出す。そう信じていたんです」
アルノーはコーヒーカップを見つめる。その黒い水面に、過去の景色が映るようだった。
「父が亡くなってから十年ほど経った頃でした。私は一人の女性と出会いました」
その声は、少しだけ柔らかくなる。
「花屋を営んでいた人でした。工房の隣の通りに小さなお店があって、毎朝…花を届けに来てくれるんです。『時計ばかり見ていたら、季節を忘れてしまいますよ』それが、彼女の口癖でした」
アルノーは自然と笑みを浮かべる。
「私は季節なんて気にしたことがありませんでした。時計ばかり見ていましたから。でも彼女と話すようになって、春の匂いや、雨の音や、夕焼けの色が少しずつ好きになっていったんです」
やがて二人は夫婦になった。大きな幸せではないが、一緒にコーヒーを飲み、昼はそれぞれ仕事をして、夜になればその日にあった出来事を笑いながら話す。そんな穏やかな毎日だった。そんな日々を思い出すように、コーヒーを一口飲む。
「彼女は『あなたは時計ばかり直してる。たまには自分も休まないと駄目ですよ』そう言って、よく笑っていました」
アルノーは目を細める。その笑顔は、今でもはっきり思い出せる。
「私は…この時間が、ずっと続くものだと思っていました」
長い沈黙。時計だけが静かに時を刻む。
「ある冬の日、彼女が倒れたんです」
声が少しだけ震える。
「最初は風邪だと思いました。すぐ治ると、そう思っていました。けれど熱は下がらず、身体は少しずつ弱っていき、笑顔は日に日に少なくなっていきました。医者を呼びました。町中の医者に診てもらいました。王都の名医にも頼みました。薬も、祈りも、できることは全部しました」
アルノーはゆっくり首を横へ振る。
「何一つ変わりませんでした」
部屋は静まり返る。尊は何も言わない。アルノーは続ける。
「工房では、毎日時計を直していました。昨日まで止まっていた時計が、今日には動き出す。依頼人は喜んで帰っていくのを、私は笑顔で見送る。でも家へ帰ると、彼女は昨日より少しだけ苦しそうになっている」
その言葉は、自分へ言い聞かせるようだった。
「時計は直せる。それなのに妻の時間だけは、どうしても直せなかった」
アルノーは拳を握り締める。
「私は初めて時計が憎いと思いました。どの時計も何事もなかったように、同じ速さで時を刻み続ける。お願いだから少しだけ止まってくれ。もう少しだけ彼女と一緒にいさせてくれ。けれど…時計は止まりませんでした」
静かな涙が一筋、頬を伝う。
「最後の日、彼女は私の手を握って『そんな顔をしないで』……そう言いました」
アルノーは目を閉じる。
「私は笑えませんでした。職人なのに何一つ直せなかった。彼女は苦しそうなのに、私はただ手を握ることしかできなかった」
その手は、少しずつ冷たくなっていく。父を見送った朝と同じように。温もりだけが、静かに消えていった。悲しみを流し込むように、アルノーはコーヒーを飲む。
「そして彼女は眠るように息を引き取りました」
長い沈黙。相談室には時計の音だけが響く。
コチ……
コチ……
コチ……
「葬儀が終わった翌日、私は工房へ戻りました。壁には何十もの時計が並んでいました。全部いつもどおり動いていました」
アルノーはゆっくり顔を上げる。
「その時、初めて思ったんです。止まっていたのは時計じゃなかった。私だったんです」
その一言に、自分でも驚いたように目を見開く。
「工房の時計は一秒も止まっていませんでした。町の人も、季節も、朝日も、全部が前へ進んでいました。でも私だけが、あの日のまま…彼女の隣で立ち止まっていた」
アルノーは静かに笑う。その笑顔は、どこか寂しかった。
「人は相変わらず『時を直す男』そう呼んでくれました。でも本当は、私は自分の時間を一歩も動かせない男だったんです」
その告白のあと、相談室には再び静かな沈黙が訪れた。尊は何も言わない。励ましの言葉も、慰めの言葉も。ただ、アルノーが自分自身でその想いを言葉にできたことを受け止めるように、穏やかな眼差しを向けていた。四季庭から吹く風が障子を優しく揺らす。止まっていたと思っていた時間は、ほんのわずかに、静かに動き始めていた。止まった時計は、動かないまま、失われた時間の痛みを静かに刻み続けていた。




