止まった時計 3
相談室には、規則正しい時計の音が響いていた。
コチ……
コチ……
コチ……
その音は決して急がず、静かに時を刻み続けている。アルノーは湯気の立つコーヒーに目を落とし、小さく笑った。
「父は時計を直す仕事を、誰よりも楽しんでいました。壊れた時計を見るたびに、父はいつも『まだ大丈夫だ。この子は、もう少し歩ける』そう言って笑う人でした」
尊は何も言わず、ただ静かに耳を傾けている。
「私は、その隣で育ちました。最初に任されたのは、掃除ばかり。工具を磨き、床を拭き、部品を並べる。そんな毎日でした。早く時計を触りたくて仕方がなかった」
懐かしそうに目を細める。
「ある日、父が壊れた懐中時計を一つ、私に渡したんです。『好きにしてみろ』それだけでした。もちろん、直せませんでした。歯車は逆につき、針は変な方向へ動き、ぜんまいまで壊してしまいました」
尊の口元にも、小さな笑みが浮かぶ。アルノーもつられるように笑った。
「私は落ち込みました。父に謝りました。『ごめんなさい。壊してしまいました』すると父は笑って、こう言ったんです。『時計はな、壊れるためにあるんじゃない。直し方を覚えるために壊れるんだ』…その言葉を聞いた日から、私は失敗を怖がらなくなりました」
相談室には、穏やかな静けさが流れる。
「十五歳になる頃には、町の時計なら大抵は直せるようになっていました。柱時計、懐中時計、振り子時計、古い教会の大時計まで、父と一緒に修理へ向かう日もありました」
アルノーは少し誇らしげに笑った。
「時計って、面白いんです。一つとして同じものはありません。職人の癖、持ち主の癖、長い年月、そうしたものがすべて時計の中に残っています。だから分解すると、その人の人生まで見える気がしました」
尊は静かに頷く。
「素敵ですね」
「はい。時計は、その人そのものなんです」
アルノーは迷いなく答えた。
「やがて父は年を重ねて、手は震え始め、だんだんと細かな作業が難しくなっていきました。ある日、父が工房の鍵を私に渡しました。『これからは、お前の工房だ。私は隣で見ている』その言葉だけでした」
アルノーは少し照れくさそうに笑う。
「嬉しかったですね。認めてもらえた気がしました。それから数年後、父は静かに息を引き取りました。最後の日は、いつもより少しだけ寒い朝でした」
アルノーはゆっくりと視線を落とす。
「工房の窓には薄い霜がついていて、朝の光がそれに触れるたび、白くきらきらと揺れていました。父はいつもの椅子に座っていて、膝の上には使い込んだ布がかけられていました。指先はもう細い歯車をつまむ力もなくて、でも私が工具を置く音には、ちゃんと反応してくれていたんです」
その声は穏やかだったが、どこか遠い場所を見ているようでもあった。
「その朝、父はとても静かでした。時計の音だけが、工房の中に満ちていました。私は父の手を握っていました。いつも油や金属の匂いがしていた手でした。その日は、少しだけ冷たくて、でもまだ温かさが残っていて…」
アルノーはそこで一度、息を止めた。
「父はゆっくり目を開けて、私を見ました。窓から差し込む光が、父の白い髪に薄く乗っていて……まるで、そこだけ時間が止まったみたいでした。私は何か言おうとしたんです。でも喉が詰まって、声にならなかった」
その瞬間、工房はひどく静かだった。時計の音だけが、やけに遠く聞こえた。
「父の唇が、かすかに動いて『……いい顔をしている』その声は、驚くほど静かでした。叱るでもなく、励ますでもなく、ただ確かめるように。まるで、長い時間をかけて見守ってきた息子の姿を、最後にそっと胸へ刻みつけるみたいに…そう言ったんです。それが、最後の言葉でした」
アルノーの指先が、膝の上でわずかに震える。
「そのあと父は私の手を、ほんの少しだけ握り返しました。力は弱かったです。でも確かに、握り返してくれた。その感触だけが、今でも残っています。父は、そのまま眠るように息を引き取りました。本当に静かでした。泣く声も、呼ぶ声も、何もなかった。ただ、光だけがありました。朝の光が、父の顔をやさしく照らしていて、私は父の手を握ったまま、しばらく動けませんでした。冷たくなっていくのが分かるんです。さっきまであった温度が、少しずつ、少しずつ、指の先から抜けていく。それが…こんなにも苦しいなんて思わなかった」
アルノーは目を伏せる。
「父が亡くなった日、工房の時計を全部止めようと思いました。けれど、止められなかった。父なら、『動かしておけ』って言う気がしたんです」
アルノーは優しく微笑む。
「その日から、私は一人で工房を続けました。少しずつ評判は広がっていった。隣町から、王都から、遠い国からも、時計を持って来る人が増えました。『この人なら直せる。もう動かない時計でも』そんな噂が広まっていきました」
照れくさそうに笑いながら、アルノーは首を振った。
「私は、そんな大した人間ではありません。ただ、時計が好きだっただけだ。壊れたまま諦められるのが嫌だった。直せるなら、もう一度動いてほしかっただけです」
その言葉には、職人としての誇りが滲んでいた。
「ある日、百年以上前の柱時計が持ち込まれました。誰も直せなかった時計でした。部品もない。図面も残っていない。私は半年かけて、部品を一つずつ作り直しました。そして、最後の歯車を組み込んだ瞬間……」
アルノーは静かに目を閉じる。まるで、その音を思い出すように。
「コチ、コチ、コチ。止まっていた時計が、また歩き始めました」
自然と笑みがこぼれる。
「あの瞬間が、時計職人になって一番嬉しかったです。依頼人のおじいさんは、泣きながら『ありがとう』って言ってくれました」
アルノーは静かにコーヒーを口へ運ぶ。
「その頃からでしょうか。人は私を『時を直す男』と呼ぶようになりました」
少し照れながら、首を横に振る。
「でも私は時間なんて直せません。直せるのは時計だけです」
その一言を口にした瞬間、アルノーの表情がほんの少し曇った。尊はその変化に気づいたが、何も聞かない。ただ静かに待つ。アルノーもまた、その先を語る覚悟を決めるように、ゆっくりと息を吐いた。
「……そう、思っていたのです」
規則正しく時を刻む時計の音だけが、静かな相談室に優しく響いていた。




