止まった時計 2
工房を出ると、空気が変わった。木と油の香りは、すぐに澄んだ風の匂いへと薄れていく。男性は松平の後ろを歩きながら、何度も自分の呼吸を確かめていた。胸の奥が落ち着かない。先ほどまでいた工房は、確かに見覚えのある場所だった。歯車の並ぶ棚、磨き込まれた作業机、父の背中を思い出させる、あの静かな匂い。けれど目を覚ましてからの出来事は、どれも現実感が薄かった。知らない部屋、知らない少女、そしてなぜか不思議と安心してしまう自分。そのこと自体が、男性には少し怖かった。
「……静かな場所ですね」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。松平は歩みを止めることなく答える。
「この場所へ来られる皆様が、安心して過ごせるようになっております」
安心。その言葉に、男性はわずかに眉を寄せた。安心できる場所…そう言われればそうなのかもしれない。だが、彼の胸の奥には、安心とは別の感情がじわじわと広がっていた。ここは、あまりにも静かすぎる。足音が吸い込まれるような廊下、障子越しに差し込む柔らかな光、遠くから聞こえる風鈴の音。どれも穏やかで、美しい。なのに、どこか現実から切り離されたような感覚がある。まるで、自分だけが別の時間に迷い込んでしまったようだった。
やがて廊下の先が開ける。男性は思わず息を呑んだ。そこには、美しい庭が広がっていた。春夏秋冬。四つの季節が、一つの景色の中で静かに寄り添っている。満開の桜、青々とした竹林、燃えるような紅葉、音もなく降る雪。池では錦鯉が泳ぎ、鹿威しが一定のリズムを刻んでいた。
「……信じられない」
思わず漏れた声には、感嘆よりも戸惑いが混じっていた。職人として、男性は精密なものだけを信じて生きてきた。歯車、針、ばね、ねじ一本の狂いも許さない世界。時間は、正確でなければならない。時計は、嘘をつかない。そう信じてきた。だからこそ、この景色は理屈では説明できなかった。春と冬が同じ場所にある。本来ならありえない。ありえないはずなのに、目の前の景色はあまりにも自然で、あまりにも静かだった。その静けさが、かえって男性の胸をざわつかせる。
「時計のようですね」
思わず口をついて出た言葉に、松平が静かに視線を向ける。
「時計、ですか」
男性は少しだけ笑った。けれど、その笑みはどこかぎこちない。
「春も、夏も、秋も、冬も…本来なら順番に訪れるものです。ですが、この庭では争わずに共にある。まるで歯車が噛み合うように」
言いながら、男性は自分でも不思議だった。なぜこんな比喩が口をついて出たのか。なぜこの景色を見て、胸の奥が少しだけ痛むのか。松平はほんの少しだけ目を細めた。
「素敵なお考えですね」
それだけ言うと、再び歩き始める。男性も後に続いた。歩くほどに、胸の奥の緊張は少しずつ増していく。庭は美しい、空気は澄んでいる。風はやわらかい。それなのに、なぜか落ち着かない。自分は本当にここへ来てよかったのだろうか。何か大切なものを忘れているのではないか。あるいは忘れてしまったこと自体が、もう取り返しのつかないことなのではないか。そんな考えが、歩くたびに静かに浮かんでは消えた。やがて一枚の障子戸の前で松平が立ち止まった。
ーコン、コンー
静かな音が響く。
「尊様、相談者様をお連れいたしました」
部屋の中から、穏やかな声が返る。
「どうぞ」
その一言を聞いた瞬間、男性の背筋がわずかに強張った。知らない声…けれど、不思議と拒絶する響きではない。それでも扉の向こうへ進むことに、ほんの少しだけ躊躇いが生まれる。ここから先は、もう戻れない気がした。松平はそんな彼の迷いを責めることなく、静かに障子を開いた。
「失礼いたします」
男性も一礼して部屋へ入る。そこは先ほどの工房とは少し違っていた。温もりのある木造の部屋。壁一面には古今東西さまざまな時計が飾られている。振り子時計、懐中時計、小さな置時計。どれも静かに時を刻んでいた。しかし不思議なことに、その音は少しもうるさくない。むしろ、部屋全体が一つの穏やかな鼓動のようだった。男性はその音を聞きながら、なぜか胸の奥が締めつけられるのを感じた。時計は動いている。それなのに、自分の中の何かだけが止まったままのような気がした。中央には丸い木の卓。その上には湯気の立つコーヒーと、小さな焼き菓子が用意されている。コーヒーの香ばしい香りに、男性は目を丸くした。
「これは……」
「仕事の合間によく飲まれていましたでしょう」
松平が静かに答える。男性は驚いたように笑う。
「ええ。父も私も毎日飲んでいました」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に小さな痛みが走る。父…その単語だけで懐かしさと同時に、言いようのない不安が込み上げてきた。思い出したくないわけではない。けれど、思い出すことが怖い。そんな矛盾した感情が、静かに喉の奥へ絡みつく。卓を挟んで、一人の青年が穏やかな笑顔で座っていた。優しい眼差しで、どこにでもいそうな青年。それなのに、その場の空気だけが不思議と柔らかい。青年は微笑んだ。
「いらっしゃい」
男性は自然と頭を下げる。
「ありがとうございます。私は……」
一瞬、言葉が詰まった。自分の名前を名乗るだけなのに、なぜこんなにも緊張するのか。相手の視線が優しいからこそ、余計に逃げ場がないように感じる。
「アルノー・ヴァイスと申します」
尊も軽く頭を下げる。
「僕は尊です。よろしくお願いします」
どちらも堅苦しさはない。まるで昔から知り合いだったような穏やかな空気が流れる。それでもアルノーの胸の奥には、まだ小さな警戒が残っていた。この人は誰なのか。なぜ自分は、初対面なのにこんなにも見透かされているような気がするのか。松平が二人の前へコーヒーを置いた。尊も同じカップを手に取る。
「相談室ではら相談者が一番落ち着くものが用意されるんです。だから僕も同じものをいただいています」
アルノーはコーヒーを一口飲む。深い香りが口いっぱいに広がる。
「……懐かしい」
思わず漏れた声は、少し震えていた。
「父が淹れるコーヒーは少し苦かったんです。私は砂糖をたくさん入れて、子どもみたいだと笑われました」
その記憶は、確かに温かい。けれど同時に、胸の奥にぽっかりと穴が開くような感覚もあった。もう戻れない場所、もう会えない人。その輪郭だけが、コーヒーの苦味と一緒にじわりと広がっていく。尊も笑う。
「甘い方が飲みやすいですよね」
「はい」
アルノーは照れくさそうに笑った。その笑顔には、先ほどまでの戸惑いはもうなかった。ただし、不安が消えたわけではない。むしろ、安心してしまったからこそ、これから何を話せばいいのか分からなくなっていた。相談室は自然と、人の心をほどいていく。しばらく静かな時間が流れる。時計の針だけが、規則正しく時を刻んでいた。その音を聞いていると、アルノーは妙な違和感を覚えた。自分の中の時間だけが、どこかずれている。周囲は進んでいるのに、自分だけが取り残されているような感覚。それが何なのか、まだ言葉にはできない。やがて尊は穏やかな声で尋ねる。
「アルノーさん。今日は、あなたのお話を聞かせていただけますか」
「はい。聞いてください」
アルノーは静かに頷いた。コーヒーカップを両手で包み込み、少しだけ視線を落とす。話したいことはある。けれど、どこから話せばいいのか分からない。胸の奥にあるのは、懐かしさだけではない。父の工房を思い出すたびに、なぜか胸を締めつけるような焦りと、言葉にできない後悔が顔を出す。それでも、ここなら話せるかもしれない。そう思わせる何かが、この部屋にはあった。
「私は小さな時計工房で生まれました。父は町で一番の時計職人でした。子どもの頃の私は、学校より工房が好きでした。毎日、父の隣で歯車を磨き、工具を並べ、壊れた時計を眺めていました」
その表情は、ようやく少しだけ柔らかくなる。
「父はよく言っていました。『アルノー、時計は時間を刻む道具じゃない。人の想いを未来へ運ぶ道具なんだ』」
アルノーは懐かしそうに目を細める。
「子どもの私は、その意味が分かりませんでした。ただ父の背中だけは、世界で一番格好いいと思っていました」
尊は何も言わない。ただ静かに頷き、その人生の続きを待っていた。相談室には、規則正しく時計の針が刻む音だけが、優しく響いていた。




