神を知る神官 5
相談室には、静かな沈黙が流れていた。四季庭では桜が舞い、雪が淡く降り積もる。その景色は変わらない。変わっていたのは、アベルの表情だった。彼は両手で湯呑みを包み込み、しばらく黙って俯いていた。やがて、小さく笑う。
「不思議ですね。私は今まで、神様を信じることだけが信仰だと思っていました」
尊は静かに耳を傾ける。
「でも…ここで人生を話しているうちに、少し違ったのかもしれないと思えてきました」
アベルはゆっくりと顔を上げた。
「神託が届かなくなっても、私は祈ることをやめませんでした。亡くなった人の手を握り、子どもたちを抱きしめ、傷ついた人へ薬を届ける。それらは神様に言われたからではありません。私自身がそうしたかったからです」
その言葉を口にした瞬間。アベルの瞳から、一筋の涙が零れた。
「私は神様に見捨てられたと思っていました。でも違ったのですね。私は最後まで、誰かを見捨てませんでした」
尊は静かに微笑む。
「はい」
その一言だけだった。それ以上の説明はしない。それで十分だった。アベルは涙を拭き、小さく笑った。
「信仰とは神様だけを見ることではなく、神様から教わった優しさを誰かへ渡し続けることだったのでしょう」
尊は嬉しそうに頷く。
「僕も、そう思います」
四季庭を渡る風が、障子を揺らす。薬草茶の香りが、二人の間をゆっくりと流れていく。長い沈黙。けれど、その沈黙は重くなかった。人生を語り終えた者だけが辿り着ける、穏やかな静けさだった。やがて尊は静かに姿勢を正す。
「アベルさん。この相談所へ来られた皆さんには三つの選択があります」
アベルは静かに頷く。尊は穏やかな声で続けた。
「一つ、この相談所で心が落ち着くまで過ごすこと。二つ、輪廻の輪へ還り新しい命として生まれ変わること。そして、三つ…」
尊はアベルをまっすぐ見つめる。
「少しだけ人生をやり直す」
部屋は静まり返る。アベルは目を閉じた。長い人生だった。神殿で育ち、多くの人を支え、多くの命を見送り、そして神を疑った。それでも、最後まで祈ることだけは忘れなかった。その人生に、今なら胸を張れる。ゆっくりと目を開く。その瞳には、もう迷いはなかった。
「……やり直したいと思います。今度は神様に認められるためではなく、目の前の人を笑顔にするために」
尊の笑顔が、少しだけ大きくなる。
「はい。きっと素敵な人生になります」
松平も静かに微笑んだ。尊は立ち上がる。その動きは、何かを始めるためというより、ひとつの祈りを結ぶためのように静かだった。相談室の空気が、すっと澄む。尊は何もない空間へ向かい、両手を合わせる。そして…
ーパンッー
澄んだ柏手の音が、部屋の奥へ、庭の隅へ、見えない境界の向こうへまで届いていく。その音が消えたあと何もなかったはずの空間に、一本の木が芽吹くように古い木の扉が現れた。それは重々しく閉ざされた扉ではなかった。長い旅路の果てに、ようやく辿り着いた者だけが開けることを許される、静かな門だった。扉の表面には、時の流れを思わせる細かな木目が走っている。そのひと筋ひと筋が、誰かの歩んだ日々のように見えた。
扉の向こうには、ただ柔らかな光だけが広がっていた。朝でも夕でもない。けれど、確かに温かい光。誰も、その先を知らない。尊ですら知らない。知っているのはらその先に新しい人生が待っているということだけ。アベルは扉の前まで歩き、ふと足を止めた。ゆっくりと振り返る。そして、尊を見つめる。その眼差しには、不思議な懐かしさが宿っていた。まるで遠い昔に見た光を、今ここで思い出したかのように。
「……あなたは」
尊は静かに首を傾げる。アベルは小さく笑う。その笑みは答えを見つけた者のものではなく、答えに触れかけて、そっと手を引いた者のものだった。
「やはり…いえ……申し訳ありません。最後まで、人違いだったようです」
尊も柔らかく笑った。
「また、どこかで会えるかもしれませんね」
「はい」
アベルは深く一礼する。その礼は相談所への礼であり、人生そのものへの礼でもあった。
「本当に、ありがとうございました」
その一言には、長い人生すべてへの感謝が込められていた。尊も静かに頭を下げる。
「こちらこそ…あなたのお話を聞かせてくださって、ありがとうございました」
アベルは最後に四季庭を見つめた。桜も、紅葉も、雪も、青葉も、すべてが穏やかに共にある景色。ひとつの季節が他を押しのけることなく、ただそこに在る景色。それは、彼が長く探していた答えの形にも似ていた。その美しい光景を胸に刻み、ゆっくりと扉へ向き直る。そして、一歩…光の中へ歩み出した。その背中は、もう迷っていなかった。
扉は静かに閉じる。音はほとんどしなかった。けれどその静けさは、何かが終わった音ではなく、何かが始まった余白のようだった。部屋には、薬草茶の優しい香りだけが残っていた。尊は閉じられた扉を見つめ、小さく微笑む。
「きっと、今度は大丈夫」
その言葉は、誰に向けたものでもない。けれど四季庭を渡る風は、その願いをそっと受け取り、桜の花びらと雪の粒を同じ空へ運んでいった。




