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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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神を知る神官 4


相談室には、静かな時間が流れていた。薬草茶の湯気がゆっくりと立ち上り、四季庭から吹く風が障子をやさしく揺らす。アベルは湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。言葉を探しているのではない。探す必要がないほど、胸の奥に残っているものが重かった。やがて、彼は小さく息を吐く。


「……ですが」


その一言だけで、部屋の空気がわずかに沈む。尊は何も言わない。ただ、静かに続きを待っていた。その沈黙に押されるように、アベルはゆっくりと語り始める。


「私が神官になって、十年ほど経った頃でした。国中を巻き込む大きな戦が始まりました。村は焼かれ、人々は故郷を追われ、神殿には毎日のように傷ついた人々が運ばれてきました」


声は穏やかだった。けれど、その穏やかさの奥には、当時の景色がそのまま沈んでいるようだった。


「私たちは昼も夜もありませんでした。怪我人の手当てをし、子どもたちを避難させ、亡くなった方へ祈りを捧げる。疲れる暇もありませんでした」


アベルはそこで一度、言葉を切る。湯呑みの縁に指先を添えたまま、少しだけ目を伏せた。


「それでも神託だけは、届いていたのです」


尊のまなざしが、ほんのわずかに動く。アベルはそれに気づかないまま、続けた。


「『焦らなくていい。目の前の一人を大切にしなさい。あなたは十分頑張っています』……そうした言葉でした」


その声には、懐かしさがあった。救われた記憶を語る者の声だった。


「その言葉だけで…私たちは、また立ち上がれました」


尊は静かに頷く。けれど、その頷きはいつもより少しだけ遅かった。アベルは気づかない。気づかないまま、次の言葉を選ぶ。


「ところが」


そこで、また一度止まる。


「ある日を境に神託が、届かなくなったのです」


その言葉が落ちた瞬間、相談室はしんと静まり返った。風の音だけが、障子の向こうでかすかに鳴っている。アベルの喉が、わずかに鳴った。あの時の感覚は、今でも身体の奥に残っている。祭壇の前に立った瞬間、いつもなら胸の内側にふわりと広がるはずの温もりが、その日はどこにもなかった。祈りを捧げても、空気は冷たいままだった。耳を澄ませても、返ってくるのは蝋燭の火が小さく揺れる音と自分の呼吸だけ。最初は、ただの疲れだと思った。神殿の誰もがそう思った。


「最初は、誰も気にしませんでした。神様も、お忙しいのだろうと。一日、二日、一週間、一か月…それでも何も聞こえませんでした」


アベルは拳を握りしめる。指先に力を込めるたび、爪が掌へ食い込む。痛みはある。けれど、それでも足りない。胸の奥に空いた穴は、痛みでは埋まらなかった。


「祭壇で祈っても返事はありません。神官たちは毎日祈り続けました。私も何度も何度も祈りました。どうか、お声を聞かせてください…と」


静かな声だった。その静けさが、かえって胸を締めつける。祈るたび、膝の下の石床の冷たさだけがはっきりと伝わってきた。額をつけた祭壇は、いつもなら微かにあたたかかったのに、その時はただ硬く、無機質で、まるで見知らぬ石の塊のようだった。喉の奥が乾き、何度も唾を飲み込んだ。それでも声は返らない。祈りの言葉だけが、空っぽの神殿に落ちていく。尊は湯呑みに視線を落としたまま、何も挟まない。松平もまた、静かに立っている。その沈黙が、アベルの記憶をさらに深く引き出していく。


「返事は、最後までありませんでした」


その一言のあと、アベルはしばらく黙った。言葉を続ける前に、あの時の空白をもう一度通り抜ける必要があった。神託が途絶えた神殿は、少しずつ不安に包まれていった。誰も声に出さなかった。けれど、皆わかっていた。何かが、変わってしまったのだと。


「神託が途絶えて半年ほど経った頃、神殿へ敵軍が攻め込んできました」


その瞬間、アベルの呼吸がほんの少しだけ浅くなる。あの日の空気は、今でも鼻の奥に残っていた。焦げた木の匂い、血の匂い、湿った土と燃えた布の匂いが混ざり合って、息を吸うたびに胸の奥をざらつかせた。


「私たちは武器を持ちません。最後まで人々を逃がしました。神殿は燃えました。仲間も、師も…皆、命を落としていきました」


アベルは目を閉じる。炎に包まれる神殿、崩れ落ちる祭壇、祈りの声、泣き叫ぶ子どもたち…そのすべてが、昨日のことのようだった。炎は赤かった。けれど、ただ赤いだけではなかった。金色の装飾を舐めるように広がり、壁を這い、天井を落とし、祈りの場を一瞬で獣のように食い荒らしていった。熱風が頬を打ち、髪を焦がし、目の前が涙で滲む。誰かが名前を呼んでいた。誰かが助けを求めていた。誰かが倒れる音がした。そのたびに胸が裂けるようだった。


「私は最後まで祭壇の前にいました。きっと最後には神様が来てくださる……そう信じていたからです」


長い沈黙。その沈黙の中で、アベルはあの時の自分の足音まで思い出していた。燃え落ちる梁を避けながら、崩れかけた床を踏みしめ、祭壇へ向かうたびに、足裏に伝わる熱と震え。煙で視界が白く曇り、涙で何も見えなくなっても、それでも前へ進んだ。神様が来る…そう信じるしかなかった。信じなければ、あの場に立っていた意味がなくなってしまう気がしたからだ。


「……来ませんでした」


その七文字だけで十分だった。どれほど深い絶望だったのか。誰にでも伝わる。祭壇の前で膝をついたまま、アベルは初めて、自分の中で何かが音を立てて崩れるのを感じた。胸の奥にあったはずの確かな灯りが、ふっと消える。その瞬間、身体の芯まで冷えた。炎に包まれた神殿の中で、なぜか自分だけが氷の底に沈んでいくようだった。


「私は初めて思いました。神様は私たちを見捨てたのではないか、と」


薬草茶は、もう冷めかけていた。アベルは小さく笑う。


「おかしいですね。神官なのに、最後まで信じるべき私が一番最初に疑ってしまった」


その笑みは、笑みと呼ぶにはあまりに弱かった。尊はそこで初めて、ゆっくりと顔を上げる。穏やかな眼差しのまま、短く尋ねた。


「それでも祈ることは、やめませんでしたか」


アベルは少し驚いたように尊を見る。その問いは、責めるものではなかった。ただ、確かめるような声だった。アベルはしばらく黙る。そして、ゆっくり首を横に振った。


「……やめられませんでした。信じられなくなっても、朝になると祈ってしまう。食事の前には感謝してしまう。亡くなった人を見送る時には、自然と祈りの言葉が出てしまう」


苦笑する。


「体が覚えていたのでしょう。幼い頃から続けてきたことですから」


尊は静かに微笑んだ。


「それは、きっと大切なことですね」


その言葉に、アベルの肩から少しだけ力が抜ける。


「私は神を疑いました。神殿も失いました。信仰も失ったと思っていました。けれど祈ることだけは、最後まで失えませんでした」


その言葉を口にした瞬間。アベル自身の表情が、ほんの少し変わる。まるで、自分で初めて気づいたかのように。尊は静かに湯呑みを置いた。その音は小さい。けれど、相談室の中では妙に鮮明だった。尊はしばらく黙っていた。アベルもまた、次の言葉を待つ。その沈黙が、少しずつ長くなる。長くなるほどに、アベルの胸の奥に、言いようのない不安が芽生えていく。尊は何を考えているのだろう。なぜ今、黙るのだろう。やがて尊は、穏やかな声で一つだけ尋ねた。


「アベルさん、あなたが仕えていた神様のお名前を…」


そこで、尊は一度だけ言葉を切る。まるで、口にする前から何かを確かめているように。


「教えていただいてもよろしいですか」


アベルは少し驚いたように目を瞬かせた。それは、あまりにも自然な問いだった。だからこそ、すぐに答えられるはずだった。


「もちろんです。」


そう言って彼は迷いなく、その名を口にする。


「その御方は、一柱の神」


その名が静かな相談室に響いた。尊はその名を聞いた瞬間、ほんのわずかに目を見開いた。ほんの一瞬だけ。けれどその一瞬は、アベルには十分すぎるほど長く感じられた。尊の表情が、初めて揺れた。それは驚きだったのか、戸惑いだったのか、あるいは別の何かだったのか。アベルにはわからない。ただ、わからないまま、胸の奥がざわつく。尊はすぐにいつもの穏やかな笑顔へ戻る。けれど、その戻り方が、どこかぎこちなく見えた。


「……ごめんなさい」


尊は静かに言った。


「その神様のお名前を…」


一度、そこで止まる。ほんの少しだけ、呼吸を整えるように。


「僕は知りません」


その一言が落ちた瞬間。アベルの表情から、音もなく血の気が引いた。


「……え?」


声になったのは、それだけだった。だが、その短い一音のあとに続いた沈黙は、ただの間ではなかった。アベルの中で何かが静かに、しかし決定的に崩れていく音がした。神官として生きてきた人生で、その神の名を知らない者など、一人もいなかった。知らないはずがない、知らないと言われるはずがない。それなのに、目の前の青年は、あまりにも自然に「知らない」と言った。その瞬間、アベルは理解する。自分が今まで当然だと思っていた世界の前提が、足元から音もなく外れていく感覚を。


神託を知る者、神の名を知る者、祈りの意味を知る者。そのどれもが、目の前の青年には当てはまらないのではないか。では、彼は何者なのか。なぜ、この場所にいるのか。なぜ、自分の人生をここまで正確に受け止めているのか。アベルの指先が、湯呑みの縁から離れる。胸の奥で、何かが静かに軋んだ。目の前にいる青年は…一体、何者なのだろう。尊は何も言わない。アベルも、何も言えない。相談室には、長い沈黙だけが残った。


四季庭を渡る風が、静かに障子を揺らしていた。その向こうで、アベルは初めて、尊という名の青年そのものを疑い始めていた。


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