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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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神を知る神官 3


相談室には、穏やかな静寂が流れていた。障子の向こうでは、四季庭を渡る風が竹林を優しく揺らしている。鹿威しが静かな音を響かせ、池では錦鯉がゆったりと泳いでいた。尊は湯呑みを両手で包みながら、静かにアベルの言葉を待っている。松平は少し離れた場所で、新しいお茶を淹れていた。薬草のやさしい香りが部屋いっぱいに広がる。アベルは湯呑みを見つめ、小さく息を吐いた。


「私は、生まれて間もなく神殿へ預けられました。戦乱の続く時代でした。両親は私を守るため、神殿へ託したそうです。その頃の記憶はありません。私にとって家族とは、神殿の皆でした」


穏やかな声だった。長い年月をかけて、自分の人生を受け入れてきた人の声。


「朝は鐘の音で目を覚まします。まだ暗いうちから祭壇を磨き、庭を掃き、祈りを捧げる。昼は村の人々の相談に乗り、病人を見舞い、子どもたちへ文字を教えました。夜になると、再び祈ります。毎日、同じことの繰り返しでした」


アベルは少しだけ微笑む。


「でも、不思議と退屈ではありませんでした。誰かが笑ってくれる、ありがとうと言ってくれる。それだけで十分幸せだったのです」


尊は静かに頷き、何も言わない。その沈黙が、続きを促していた。


「神殿には、一柱の神がおられました」


その言葉に、相談室の空気が少しだけ変わる。尊は表情を変えない。ただ静かに耳を傾けている。


「姿を現すことはありません。祭壇へ祈りを捧げると、ごく稀に神託を授けてくださる。声だけが届くのです。その御言葉は、いつも穏やかでした」


アベルは懐かしそうに目を細める。


「『焦らなくていい。大丈夫。今日も誰かを笑顔にしておいで』難しい教えではありませんでした。子どもでも分かるような、優しい言葉ばかりでした」


その言葉を聞いた尊は、どこか安心したように微笑む。


「優しい神様だったんですね」

「はい」


アベルは迷いなく頷いた。


「だから皆、そのお方を慕っていました。村人も、旅人も、孤児たちも。誰もが神殿へ来ては、その神のお話を聞きたがりました」


薬草茶を一口飲む。温かさが喉を通り、胸へ広がっていく。


「私もらいつか神託を授かる神官になりたいと思いました。毎日祈りました。もっと人の役に立てるようになりたい、と」


アベルは少し照れくさそうに笑う。


「若かったのでしょう。神様に認めてもらいたかったのです」


尊も優しく笑った。


「その気持ちは分かる気がします」

「え?」


アベルは少し驚く。尊は慌てて笑う。


「あ、いや……誰かに認めてもらえると嬉しいですから。そういう意味です」

「なるほど」


アベルも微笑んだ。その笑顔を見た松平は、静かに二人の湯呑みに新しいお茶を注ぐ。湯気がゆっくりと立ち上る。


「二十五歳になった頃でした」


アベルは再び語り始める。


「ある日祭壇で祈っていると、初めて神託を授かったのです」


その瞬間のことは、今でも鮮明に覚えていた。


「とても穏やかな声でした。『ありがとう。今日まで、よく頑張りましたね』その一言だけでした」


アベルは静かに笑う。


「不思議でしょう。神様から最初にいただいた言葉が、命令でも、教えでもなく、『ありがとう』だったのです」


尊の表情がほんの少し柔らかくなる。


「……素敵ですね」

「はい。その日から私は正式な神官として、多くの村を巡るようになりました。病人を訪ね、争いを仲裁し、迷う人の話を聞き、神託を届ける。誰かのために生きる毎日は、とても幸せでした」


アベルは窓の外へ目を向ける。桜の花びらが、雪の上へ静かに舞い落ちる。


「私は、この神に一生を捧げよう。そう、本気で思っていました」


その声には、揺るぎない信仰が込められていた。けれどその言葉を口にしたあと、アベルはふと黙る。湯呑みを持つ指先が、ほんのわずかに力を失った。視線が落ちる。薬草茶の表面に映る自分の顔を、見ているのかいないのかも分からない。相談室に、音が消える。鹿威しの響きさえ、遠くへ引いていくようだった。


アベルは唇を開きかける。だが、声は出ない。喉の奥で、何かが引っかかっている。言葉にしてしまえば、もう戻れない。そんな迷いが、沈黙の底で静かに揺れていた。尊は何も言わない。急かさない、ただ待っている。その静けさが、かえってアベルの胸を締めつけた。松平もまた、湯を注ぐ手を止めていた。部屋の中には、茶の香りだけが満ちている。やがてアベルは、ゆっくりと息を吸った。浅く、震えるような呼吸だった。


「……ですが」


その一言は、思っていたよりもずっと小さかった。けれど、相談室の空気を確かに変えた。それまで穏やかに流れていた時間が、そこでぴたりと止まる。アベルは目を閉じる。閉じた瞼の裏に、何かを見ないようにするみたいに。あるいは、見えてしまう何かから目を逸らすように。指先が、湯呑みの縁をかすかに震わせる。その震えは、寒さではなかった。長く押し込めてきた記憶が、静かに扉を叩いている。言いたくない…けれど、言わなければならない。その葛藤が、胸の奥で鈍く軋んでいた。


ここから先は、ただの思い出ではない。口にした瞬間、信じてきたものの輪郭が変わってしまうかもしれない。誰かを責めるためではない、自分を守るためでもない。それでもなお、語らなければならない真実がある。アベルはその重さを知っていた。だからこそ、次の一言が喉の奥で何度も砕けては消えていく。尊はただ待つ。松平も動かない。四季庭を渡る風だけが、障子をやさしく揺らしていた。


相談室には再び静寂が戻る。だが、それは先ほどまでの穏やかな静けさではない。何かが始まる直前の、張りつめた沈黙だった。アベルはまだ、次の言葉を探している。その沈黙の奥で、彼の信仰が、ほんの少しだけ揺れていた。


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