表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/71

神を知る神官 2


「お目覚めですか」


穏やかな声が、静かな神殿に響いた。男性はゆっくりと瞼を開く。最初に映ったのは、高い天井だった。色鮮やかなステンドグラスから柔らかな光が差し込み、石造りの壁をやさしく照らしている。祭壇には一本の蝋燭、その炎だけが、静かに揺れていた。乳香のような香りが、薄く空気に溶けている。男性はしばらく息を整えたまま、その匂いを胸の奥へ落とし込んだ。理由は分からない。けれど初めて来た場所ではないような感覚だけが、確かに残っていた。


声の方へ顔を向ける。そこには、一人の少女が立っていた。年の頃は十五、六歳ほどに見える。整った顔立ち、長い黒髪。表情は穏やかで、感情を大きく表に出すことはない。それでも、その瞳には不思議な温かさが宿っていた。少女は男性が目を覚ましたことを確認すると、ほんのわずかに視線を伏せた。相手を驚かせないように、距離を詰めすぎないように。けれど、置き去りにもならないように。その仕草は静かで、無駄がなかった。男性はゆっくりと身体を起こす。その動きに合わせて、少女は一歩だけ距離を取った。近すぎず、遠すぎず。不思議なほど、呼吸がしやすい距離だった。


「……ここは」


掠れた声で問うと、少女は静かに一礼する。


「異世界相談所でございます。私は松平と申します。どうぞ、こちらへ」


その声は落ち着いていた。けれど耳の奥に触れた瞬間、男性はわずかに眉を寄せる。どこかで聞いたことがある。そんなはずはない。そう思いながらも、胸の奥に小さな引っかかりだけが残った。


「……お願いいたします」


戸惑いを隠しきれないまま、小さく頷く。松平はそれ以上何も言わず、静かに踵を返した。その背中は、揺れが少ない。歩幅も一定で、足音すらほとんど立てない。まるで、誰かに見守られることに慣れている者のようだった。男性はその後ろを追う。部屋を出た瞬間、ふわりと風が頬を撫でた。廊下へ足を踏み出したその時、男性は思わず足を止める。窓の向こうに広がっていたのは、言葉では表せない景色だった。桜が咲いている。そのすぐ隣では紅葉が風に舞い、さらに奥には雪景色が広がる。青々とした竹林では風鈴が揺れ、池には錦鯉が静かに泳いでいた。ありえないはずの景色が、そこには自然に並んでいる。


「……四季が同時に」


思わず漏れた言葉に松平は立ち止まることなく、しかし確かに頷いた。


「この庭では、季節は流れません。訪れる皆様が、安心して歩けるように」


男性はゆっくりと景色を見渡した。桜の花びらが雪の上に落ち、紅葉の葉が池の水面へ触れる。その光景は美しいというより、胸の奥を静かに揺らした。どこかで、似た景色を見たことがある。そんなはずはないのに。歩くたびに、胸の奥の緊張が少しずつほどけていく。それと同時に、理由の分からない違和感もまた、静かに積もっていく。この庭は、初めて見るのに落ち着く。この空気は、知らないのに身体が覚えているようだった。その感覚が、男性を少しだけ不安にさせた。やがて一枚の障子戸の前で、松平は立ち止まった。


ーコン、コンー


静かな音が響く。


「尊様、相談者様をお連れいたしました」


部屋の中から、穏やかな声が返ってくる。


「どうぞ」


その声を聞いた瞬間、男性はなぜか胸の奥を強く掴まれたような気がした。今の声は、初めて聞いたはずだ。それなのに耳の奥に、遠い昔の残響のようなものが触れた気がした。松平は障子を静かに開いた。


「失礼いたします」


男性も続いて一礼し、部屋へ入る。そこは豪華でも質素でもなかった。石造りの神殿を思わせる落ち着いた空間に、木の温もりが自然と溶け込んでいる。大きな窓からは四季庭が見え、柔らかな光が差し込んでいた。中央には丸い木の卓。その上には、温かな薬草茶と焼きたての素朴なパンが用意されている。まるで長旅を終えた者を迎えるような、優しい空間だった。だが、男性はその部屋に入った瞬間、さらに小さな違和感を覚える。


卓の上の湯呑みは、二つ。ひとつはすでに湯気を立てている。もうひとつも、まるで誰かが来ることを最初から知っていたかのように、静かに待っていた。卓を挟んで、一人の青年が座っていた。穏やかな笑顔。どこにでもいそうな青年に見える。それなのに視線が合った瞬間、男性は息を呑む。青年は、こちらを見ていた。まるで、ずっと前から知っていた相手を迎えるような目だった。その視線に、男性の胸がかすかにざわつく。青年は立ち上がるでもなく、ただ少しだけ姿勢を正して柔らかく微笑む。その動きが、あまりにも自然だった。けれど同時に、男性の記憶のどこかを強く撫でた。視線を向ける角度、相手を急かさない待ち方。口を開く前に、ほんの少しだけ息を整える癖。そのどれもが初めて見るはずなのに、なぜか知っている気がした。


「いらっしゃい」


その言葉は初対面のはずなのに、妙に自然だった。男性は自然と頭を下げる。


「突然のことばかりで……まだ状況が理解できておりません」


尊は小さく笑った。その笑い方もまた、男性の胸の奥に引っかかる。笑う前に一瞬だけ目を細める癖。声を出す前に、ほんの少しだけ息を整える仕草。どれも初めて見るはずなのに、なぜか知っている気がした。しかも、その笑みはどこかで見たものと同じだった。相手を安心させるために、わざと柔らかく作るのではない。自然に、相手の緊張をほどこうとする笑い方。それが、妙に懐かしい。


「皆さん最初はそうですよ。焦らなくて大丈夫です。まずは、お茶でも飲みましょう」


松平が静かに薬草茶を注ぐ。湯気とともに、やわらかな香りが広がった。男性はその香りを吸い込み、思わず目を伏せる。昔、神殿の奥で焚かれていた香りに似ていた。祈りの前に漂っていた、静かな匂い。胸の奥に、遠い記憶の扉が触れられたような感覚が走る。男性は湯呑みを手に取り、一口飲む。


「……この味。昔、神殿で育てていた薬草ですね」


尊も同じ薬草茶を口にする。その所作は自然で、無理がない。相談者と同じものをいただく。その当たり前のような振る舞いが、男性には妙に印象に残った。しかも湯呑みを持つ指の角度まで、どこか見覚えがある。尊は湯呑みを置くと、男性と同じように一度だけ視線を落とした。その仕草まで、なぜか重なる。


「相談室ではら相談者さんが一番落ち着くものが用意されるんです。だから僕も、同じものをいただいています」


男性は少しだけ笑った。


「そうでしたか…不思議な場所ですね」


「はい。でも皆さん、帰る頃には好きになってくださいます」


相談室に、穏やかな時間が流れる。四季庭を渡る風が、障子を優しく揺らした。その風に混じって、どこか遠い鐘の音のようなものが聞こえた気がして、男性はふと顔を上げる。だが、もちろん鐘など鳴ってはいない。ただ、胸の奥だけが静かに騒いでいた。しばらくして、尊は静かに問いかける。


「お名前を、お聞きしてもよろしいですか」


男性は姿勢を正した。その背筋の伸ばし方まで、尊とどこか似ていた。


「アベル…アベル・クラウディウスと申します。長く神殿で神官を務めておりました」


尊は微笑む。


「アベルさん。今日は、あなたのお話を聞かせてください。ここでは、急ぐ必要はありません。思い出せるところからで大丈夫です」


アベルは静かに頷く。


「ありがとうございます」


一度、薬草茶を口に含む。その温かさが胸へ広がっていく。


「私は…幼い頃から神殿で育ちました。物心ついた頃には、祈りが生活でした。朝は鐘の音で目を覚まし、神殿を掃除し、神へ祈りを捧げる。それが、私の日常でした」


穏やかな声で語り始める。尊は何も口を挟まない。ただ静かに耳を傾けていた。その聞き方もまた、アベルには妙に心地よかった。急かさない、遮らない、けれどきちんとこちらを見ている。その視線の置き方が、誰かを思い出させる。アベルはふと顔を上げる。そして、尊の顔を見つめた。


その瞬間、心臓が大きく脈打つ。呼吸が、一拍だけ浅くなる。視線を外そうとしても、外せない。胸の奥で、何かが小さく軋んだ。言葉になる前の記憶が、喉元まで浮かび上がっては沈んでいく。アベルは唇をわずかに開き、閉じる。その間に、尊は何も言わず待っていた。まるで、続きを知っているかのように。アベルの指先が、湯呑みの縁をかすかに撫でる。その動きだけが、妙に現実味を帯びていた。やがて、抑えきれないように言葉が漏れる。


「あなたは……」


そこまで口にして、アベルははっと我に返る。静かに首を振る。


「……いえ、失礼いたしました」


尊は少し首をかしげる。


「どうかされましたか」


アベルは穏やかに微笑み、ゆっくりと首を横に振った。


「いいえ…人違いだったようです」


尊はその言葉を疑うことなく微笑み返した。


「そうですか」


そのやり取りを見つめる松平だけが、ほんのわずかに視線を伏せる。誰にも気づかれないほど、小さく、静かに……まるで、今の一瞬がいつか来ることを知っていたかのように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ