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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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神を知る神官 1


春の桜が風に舞う。そのすぐ隣では、紅葉が静かに色づき、雪が淡く降り積もっている。夏の青葉を揺らす風は心地よく、池では錦鯉がゆっくりと水面を泳いでいた。四つの季節が一つの庭で寄り添う場所。異世界相談所…四季庭。縁側では、尊が寝転がって空を眺めていた。頬を撫でる風に目を細めながら、大きく伸びをする。


「いい天気だなあ」


誰に言うでもなく呟く。もっとも、この庭では「天気」という言葉すら意味を持たない。雪が降りながら陽が差し、桜が咲く横で蛍が舞う。それが、この場所の日常だった。縁側の向こうでは、松平が静かに湯を沸かしている。少女のような整った顔立ち。表情はほとんど変わらない。けれど、その所作には無駄がなく、一つひとつが美しい。湯気が立ち始める。松平は急須へ茶葉を入れ、ゆっくりと湯を注いだ。


「尊様、お茶が入りました」

「ありがとう、松ちゃん」


尊は嬉しそうに身体を起こし、縁側へ座る。湯呑みを受け取り、一口飲んだ。


「……おいしい」


松平も同じお茶を口にする。相談者と同じものをいただくのが相談室での決まりだが、相談者がいない時間は二人で季節のお茶を楽しむことが多かった。今日のお茶は、若葉の香りがほのかに残る煎茶だった。


「最近、暖かい相談者様が続きましたね」


松平が静かに言う。尊は笑う。


「うん。みんな少しずつ前へ進んでる…嬉しいね」


松平は小さく頷いた。


「エレノア様も、きっと笑っておられるでしょう」


尊は四季庭を見つめる。


「今頃、女の子と一緒に花を見てるかもしれない。百合かな、それとも野花かな」


想像すると自然に笑顔になる。相談者たちは皆、この場所を去っていく。けれど、尊は別れを寂しいとは思わなかった。もう一度、生きるために送り出す場所。それが、この異世界相談所だからだ。風が吹く。桜の花びらが湯呑みの近くへ舞い落ちた。その時だった…最初は、ただ空気が止まったように感じた。風がふっと途切れ、庭のざわめきが遠のく。桜の花びらの舞いも、池の水面の揺らぎも、どこか薄い膜の向こうへ退いていくようだった。次の瞬間。


ーカランー


澄んだ鈴の音が、相談所の奥深くから一筋の光のように響いた。たった一つ。けれど、その一音だけで、相談所の空気はがらりと変わる。さっきまで縁側に満ちていた穏やかな昼の気配が、音に押し出されるように静まり返り、庭の色さえ少しだけ深く沈んだ。尊は湯呑みを置く。その音は、一つだけ。世界中に吊るされた無数の鈴の中から、一つだけが鳴る。相談者が命を終えた、その瞬間に。その世界に対応する鈴だけが、静かに鳴るのである。鈴の余韻はすぐには消えなかった。澄んだ音は空気の中に溶け込みながら、なおも細い糸のように伸びていく。その残響が完全に消えるまで、誰も言葉を発さない。相談所全体が、その一音を受け止めるように、深い静寂へ沈んでいった。鈴の音が聞こえた時点で、誰がこの相談所へ来るのかは、もう決まっている。尊は微笑んだ。


「松ちゃん、お客様だね」

「はい」


松平は静かに立ち上がる。受付へ向かう廊下を歩き始めた。尊はその背中を見送りながら、もう一口だけお茶を飲む。


「今日は、どんな人なんだろう」


答える者はいない。ただ風鈴だけが、小さく鳴った。受付、異世界相談所へ来た者が最初に通る場所。小さな木製の机、その後ろには壁一面の時計。柱時計、懐中時計、砂時計、日時計、魔法で動く時計。世界ごとに姿は違う。しかし、どれ一つとして動いていなかった。時間を失った者が訪れる場所。だから、この場所に時は流れない。松平は静かに受付を通り過ぎる。さらに奥、相談者が目覚める部屋の前で足を止めた。障子の向こうは静かだった。相談所そのものが、その人の記憶を読み取り、「一番安心できる場所」を創り出している。尊ですら、その部屋がどのような姿になっているのかは分からない。松平は静かに襖へ手を添えた。


部屋の中では、一人の男性が眠っていた。白い法衣、胸元には古びた神紋、年は五十代ほど、穏やかな寝顔だった。やがて男性の指先がわずかに動く。ゆっくりと瞼が開いた。最初に映ったのは、高い天井だった。色鮮やかなステンドグラスから柔らかな光が差し込み、石造りの壁を優しく照らしている。祭壇には一本の蝋燭、その炎だけが静かに揺れていた。微かに香る乳香、どこか懐かしい祈りの香り。男性はゆっくりと身体を起こす。辺りを見回し、小さく呟いた。


「……神殿」


幼い頃から育った、誰よりも懐かしい場所。もう失われたはずの故郷だった。胸の奥が、少しだけ温かくなる。知らない場所のはずなのに、どうしてこんなにも落ち着くのだろう。その時、襖が静かに開いた。開いた瞬間、部屋の空気がさらにひとつ深く沈む。外の気配はすっと遠のき、蝋燭の炎の揺れさえ、より小さく見えた。


そこには、表情の変わらない一人の少女が立っていた。神殿の静謐さをそのまま切り取ったような、白く整った空気をまとった少女だった。けれど、その静けさは安らぎではなかった。音もなく立つ姿は、まるで祈りの場に迷い込んだ異物のように、神殿の厳かな空気へ細い棘を落としていく。蝋燭の光が少女の頬をかすかに照らす。影は薄い。なのに、その輪郭だけが妙にくっきりと浮かび上がって見えた。まるで、ここにいるべきではないものが、あえて形を持って現れたかのように。


「お目覚めですか」


穏やかな声だった。それなのに、部屋の静寂はさらに深く沈み込む。神殿の荘厳さと、少女の無表情な佇まい。その対比はあまりにも鮮やかで、男性の胸に理由の分からない冷たいものを落とした。祈りの香りは変わらない、蝋燭も揺れている。それでも、さっきまで確かにあったはずの安堵だけが、どこかへ消えていた。


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