神を信じられなくなった修道女 6
輪廻の扉が閉じた。木の扉は光に溶け、跡形もなく消える。相談室に残ったのは、薬草茶の香りだけだった。尊は扉のあった場所を見つめ、ふっと息をつく。二人は並んで相談室を出た。廊下はいつも通り静かで、足音だけが小さく響く。四季庭へ出ると、春風が桜を散らし、紅葉が揺れ、雪が舞っていた。池では錦鯉がゆるやかに泳ぎ、鹿威しが音を落とす。
ーコンー
尊は縁側に腰を下ろし、湯呑みを受け取った。ひと口飲んで、目を細める。
「松ちゃん」
「はい」
「祈りって、不思議だね」
松平も隣に座る。
「どうしてですか」
尊は庭を眺めたまま言う。
「叶わない願いもあるのに、人は祈る」
春風が二人の間を抜けた。薬草の香りがふわりと広がる。松平は小さく頷く。
「祈ることで、自分を支えているのかもしれません」
「うん」
尊は少し笑った。
「エレノアさんも、最後には思い出せたんだね」
「何をですか」
「神様を信じていたことじゃなくて……あの子を大切に思っていた、自分の心」
松平は何も言わない。その沈黙が、答えだった。しばらくして、尊は立ち上がる。
「さて、今日も備忘録を書こう」
執務室。相談所で唯一、変わらない部屋。障子越しの光が畳を淡く照らし、文机と本棚の影を落としている。尊は一冊の本を開いた。そこには、エレノアの人生が綴られている。筆を取り、墨を含ませる。そして最後の頁へ、ゆっくり書きつけた。
『あなたは神を信じられなくなったのではない。救えなかった命を忘れたくなくて、自分を赦せなかっただけだ。あなたの祈りは奇跡を求めるものではなく、一人の少女に寄り添い続けた優しさだった。その優しさは、最後の「ありがとう」とともに、確かに届いている。どうか次の人生でも、誰かの心に寄り添う人でありますように』
筆を置く。尊は本を閉じた。白かった背表紙に、淡い金色の文字が浮かぶ。
『エレノア』
本を抱え、尊は本棚へ向かう。そっと戻すと、本は光を帯び、棚へ吸い込まれるように収まった。また一冊、帰る場所を得た。尊はそのまま本棚を見渡し、ふと足を止める。一冊だけ、そこに異様なほど静かに佇む本がある。他の本は人生を終えた者たちの記憶を宿して、背表紙の色も厚みもわずかに違って見える。けれど、その一冊だけは違った。真っ白だった。紙の白さではない。光を吸い込んでしまうような、輪郭の曖昧な白。題も、名もない。背表紙には何も書かれていないはずなのに見つめていると、そこだけ空白が深く沈んでいるように感じる。まるで本棚の中に、ひとつだけ呼吸をしていない場所があるみたいだった。尊は首をかしげた。
「……本当に、誰の本なんだろう」
松平がその本に目を向ける。その視線は一瞬だけ止まり、すぐに逸れた。答えは知っている。けれど、まだ言わない。いや、言えないのかもしれない。尊は気にした様子もなく笑う。
「いつか分かるかな」
「その日が来ます」
松平の声は変わらない。だが、その静けさの奥に、ほんのわずかな硬さが混じっていた。尊は嬉しそうに頷いた。
「楽しみだね」
その言葉に、松平は何も返さない。ただ、本棚の白い一冊を見つめたまま、ほんの少しだけ目を細めた。部屋に、また静けさが戻る。その時だった…ふわり、と香りが変わる。薬草ではない。甘く、どこか懐かしい百合の香り。尊は鼻先を動かした。
「今度は百合だ」
松平は目を閉じる。
「次のお客様の記憶でしょう」
尊は少しだけ首を傾げる。
「どんな人なんだろう」
香りの奥には、深い祈りと、長い年月を抱えた信仰が潜んでいた。まだ名前も知らない、顔も知らない。けれどその先には、祈りでは覆えない痛みと、失ったまま立ち尽くす気配がある。尊はもう一度、本棚へ視線を戻した。白い本は、やはり何も語らない。ただ、そこにあるだけだった。だがその沈黙は、ただの空白ではない。何かを待っているようでもあり、何かを隠しているようでもある。尊の胸の奥に、理由の分からないざらつきが一瞬だけ走った。
「……松ちゃん」
「はい」
「この本、なんだか少し冷たいね」
松平はすぐには答えなかった。ほんのわずかに間を置いてから、静かに言う。
「……ええ。まだ、触れない方がよろしいかと」
尊は目を丸くした。松平がそんな言い方をするのは珍しかった。けれど、尊はそれ以上聞かなかった。聞いてはいけない気がした。四季庭で風鈴が鳴った。
ーちりんー
澄んだ音が、遠くの誰かを呼ぶように響く。異世界相談所は今日も、後悔を抱えた誰かを待っている。次に訪れる者は、これまでとは少し違う。祈りの先で何を失い、何を信じられなくなったのか。その答えを知る者は、まだいない。ただ一冊、名も題もない白い本だけが、本棚の奥で静かに沈黙していた。




