神を信じられなくなった修道女 4
相談室には、静かな時間が流れていた。窓の外では、桜の花びらが池へ舞い落ちる。その向こうでは、雪が音もなく積もり続けていた。薬草茶から立ちのぼる湯気だけが、ゆっくりと揺れている。エレノアは湯呑みを両手で包んだまま、しばらく動かなかった。指先は白くなるほど強く陶器を握り、胸元の十字架へ何度も触れては、また離す。そのたびに、細い肩がわずかに震える。言葉を探しているのか、それとも探すことそのものを恐れているのか。やがて、かすれた息がこぼれた。
「……リリアを看取った日」
そこで、言葉は途切れた。エレノアは唇を結び、視線を落とす。膝の上で組まれた指が、白くなるほど強く絡まっていた。しばらく、何も言わない。相談室には、薬草茶の香りと、風鈴の遠い余韻だけが満ちていた。
「私は、泣きませんでした」
ようやくそう続けた声は、ひどく小さい。そのあと少しだけ笑おうとして、うまくいかなかった。口元だけがかすかに動き、すぐに消える。
「泣いたら……」
そこで一度、息を呑む。喉の奥で何かが引っかかり、言葉が出てこない。エレノアは目を伏せたまま、しばらく黙っていた。尊は何も言わない。湯呑みを両手で持ったまま、ただ静かに待っている。急かさない、慰めない。その沈黙が、かえってエレノアの胸の奥を静かに締めつけた。やがて彼女は、絞り出すように続ける。
「泣いたら……何かが、壊れてしまう気がして」
その言葉のあと、長い沈黙が落ちた。エレノアは自分の膝を見つめたまま、指先を何度も握り直す。
「子どもたちの前では、笑っていました。いつも通りに、そうしないと…」
そこで、喉が詰まる。彼女は小さく首を振り、言い直した。
「そうしないと、皆が怖がると思ったので」
その声は、どこか自分に言い聞かせるようだった。尊は湯呑みを置かない。ただ、静かにその続きを待つ。エレノアは、ようやく視線を少しだけ上げた。
「でも、夜になると…」
指先が十字架を強く握る。
「礼拝堂へ行きました。誰もいない、暗い礼拝堂です。膝をついて、祭壇を見上げて…」
そこで言葉が止まる。エレノアは目を閉じた。まぶたの裏に、あの日の冷たい石床がよみがえるように、肩が小さく縮こまる。しばらくして、ようやく息を吸う。
「……何度も、祈りました。どうして、どうして、あの子だったのか。どうして、私ではなかったのか。どうして……」
声が細くなる。
「どうして、何も……」
最後の言葉は、ほとんど息に溶けた。相談室には、薬草茶の香りだけが静かに満ちていた。エレノアは目を開ける。その瞳は潤んでいたが、涙はまだ落ちない。
「翌日も、その次の夜も。私は、そこへ行きました。祈れば、きっと……」
そこで、彼女は自分の言葉に耐えきれなくなったように、湯呑みを見つめる。
「……きっと、何か返ってくると思っていました。でも何も、何もありませんでした」
その一言のあと、彼女はしばらく動かなかった。風鈴の音が、遠くでひとつ鳴る。
ーちりんー
エレノアはその音に、わずかに肩を揺らした。
「それからです。礼拝堂の扉に、手をかけるのが怖くなったのは。十字架を見るたびに……」
胸元へ落ちた視線が、そこで止まる。
「リリアの顔が浮かぶんです。『シスター、泣かないで』って」
その声を口にした瞬間、エレノアの喉が震えた。彼女はすぐに唇を噛み、俯く。
「……あの子は、最後まで笑っていました。熱に浮かされていても、苦しそうでも、私の手を離さなかった」
指先が、無意識に空を掴む。
「なのに私は……」
そこで言葉が切れる。しばらくして、ようやく続いた。
「私は、神様を疑いました」
その一言が落ちた瞬間、相談室の空気が静かに揺れた。怒りではない、叫びでもない。ただ、長く押し込めてきた痛みが、ようやく形になったような静けさだった。
「初めてでした。どうして、どうして救ってくださらなかったのか」
その問いを口にしたあと、エレノアは目を伏せる。まるで、その言葉を自分で聞くことすら耐えがたいように。薬草茶を一口飲む。もう冷めかけていた。けれど、彼女は気づいていないようだった。
「皆は言いました。神様には、お考えがあると。天へ召されたのだから、きっと幸せなのだと」
そのたびに、エレノアの眉がわずかに寄る。納得できない、と言葉にしなくても分かるほど、表情が揺れていた。
「……七歳でした」
ぽつりと落ちた声は、ほとんど独り言だった。
「まだ、何も知らない子でした。庭の花を見て笑って、雨の日は長靴を自慢して、眠る前には私の袖をつかんで……」
そこで、彼女は言葉を失う。思い出があまりに鮮やかで、続けることができないのだろう。エレノアは目を閉じ、深く息を吸った。
「私は、納得できませんでした。だから……」
そこで、指先が震える。
「祈れなくなりました」
その一言を口にした瞬間、彼女の肩から、ほんの少し力が抜けた。長く張りつめていた糸が、ようやく一本切れたようだった。
「修道女なのに祈れない。神様を信じられない」
言葉を重ねるたび、彼女は自分を責めるように視線を落とす。
「それでも、修道服だけは脱げませんでした。脱いだら……」
そこで、喉の奥が詰まる。
「今までの私まで、なくなってしまう気がして」
その言葉のあと、畳に小さな雫が落ちた。一滴、また一滴。エレノアはそれに気づいているのかいないのか、ただじっと膝の上を見つめていた。
「毎日、信じたい私と信じられない私が……」
そこで、彼女は小さく息を呑む。
「ずっと、引き裂かれていました」
礼拝堂へ行っても、何も言えない。十字架を見ても、胸が動かない。その沈黙の中で、彼女は何度も自分を責め続けてきたのだろう。
「……私は、修道女失格です」
その言葉は、ほとんど聞こえないほど小さかった。けれど、相談室にははっきりと残った。責める声はない、否定する声もない。ただ、四季庭を渡る風だけが、穏やかに吹いている。しばらくして、尊が静かに湯呑みを置いた。その音は小さかったが、妙にやさしく響いた。エレノアはその音に、わずかに肩を揺らす。尊はすぐには口を開かなかった。湯呑みの縁に指を添えたまま、ほんの少しだけ目を伏せる。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「エレノアさん」
今日初めて、尊が口を開く。その声は、いつもと変わらず穏やかだった。けれど、そこへ至るまでの沈黙が長かったぶんだけ、ひどく重く響く。エレノアは、すぐには顔を上げられない。涙の跡が頬に残ったまま、指先だけが小さく震えている。尊は、まっすぐ彼女を見ていた。逃がさないためではない、ただ目を逸らさずに受け止めるために。しばらくして、尊は静かに息を吸う。
「一つだけ」
そこで、また間が落ちる。尊は言葉を続けない。エレノアも、動かない。相談室の空気が、ぴんと張りつめる。薬草茶の湯気さえ、止まったように見えた。尊は湯呑みをそっと机へ戻した。陶器が畳の上で、かすかな音を立てる。その音が、やけに大きく聞こえた。尊は、ようやく問いを置く。
「お聞きしてもいいですか」
エレノアは、少し遅れて頷く。
「……はい」
その返事は、かすれていた。尊は、すぐには続けない。一度だけ、エレノアの表情を見つめる。それから、静かに、はっきりと問うた。
「あなたは…」
そこで、また沈黙が落ちる。短い一語の前に、長い間がある。エレノアの呼吸が止まる。尊は、その沈黙を壊さない。ただ次の言葉を置くための余白として、静かに待つ。やがて、尊は問いを完成させた。
「リリアさんを見捨てましたか」
その瞬間、相談室の空気が変わった。短い問いだった。けれど、あまりに重い。エレノアの目が大きく揺れる。驚いたように息を呑み、それからすぐに首を横へ振った。
「いいえ」
答えは、迷いなく落ちた。
「最後まで、一緒でした。薬を煎じて、額を冷やして、眠れない夜はそばにいて…手も、離しませんでした」
言い終えたあと、彼女はようやく尊を見た。その瞳には、まだ痛みが残っている。けれどどこかで、ほんの少しだけ、張りつめていたものが緩んでいた。尊は小さく頷く。
「そうですか」
それだけだった。けれど、その一言は、責めるでも慰めるでもなく、ただ静かに受け止める響きを持っていた。エレノアは尊を見つめたまま、しばらく動けなかった。胸の奥で、凍りついていた何かが、ほんのわずかにほどけていく。まだ気づけないほど小さな変化だった。それでも確かに、そこにあった。相談室には、再び静かな時間が流れる。窓の外では、桜の花びらが風に舞い、雪がやさしく大地を包んでいた。春と冬のあわいに、問いだけが残っていた。




