神を信じられなくなった修道女 3
相談室には、薬草茶の穏やかな香りが静かに満ちていた。障子越しの光はやわらかく、室内の木目や畳の色を淡く照らしている。窓の向こうに広がる四季庭では、季節の移ろいがひとつの景色の中に溶け合っていた。桜の花びらが風にほどけるように舞い、その奥では雪が音もなく降り、さらに先の竹林を渡った風が、細い風鈴をそっと揺らしている。
ーちりんー
その澄んだ音が、室内の静けさにやさしく重なった。エレノアは湯呑みを両手で包みながら、その音に耳を澄ませるようにして、静かに話を続けた。
「修道院での毎日は、とても穏やかでした。朝は鐘の音で目を覚まし、皆で祈りを捧げます。庭の薬草を育て、食事を作り、村の人々を迎えました。孤児たちも多く暮らしていました。親を亡くした子、戦で家族を失った子、病で行き場をなくした子…皆、事情は違いました。でも、修道院では家族でした」
エレノアの表情に、かすかなぬくもりが戻る。
「子どもたちは元気でした。庭を走り回り、畑を荒らして叱られ、食事の時間になると一番大きな声でお祈りをしていました。私は、そんな毎日が大好きでした」
一度言葉を切り、薬草茶をひと口飲む。温かな湯気が、少しだけ震えた呼吸をやわらげた。
「……あの子も、その中の一人でした」
その一言で、相談室の空気がわずかに変わる。
「名前は、リリア。七歳でした。花が大好きな女の子です。庭の百合を見るたびに『神様のお花ですね』そう言って笑う子でした」
エレノアも、その記憶に導かれるように、ほんの少しだけ口元を緩める。
「私の後ろを、いつも歩いていました。『シスター、今日は何をするの?今日は何のお祈り?今日は何のお花が咲く?』本当に、よく話す子でした」
しばらく浮かんでいた微笑みが、ゆっくりと曇っていく。
「その年の冬、村で病が流行りました。最初は風邪だと思われていました。でも違いました。熱は下がらず、薬も効かず、次々に倒れていったのです」
相談室に、静かな沈黙が落ちる。
「修道院も、すぐに診療所のようになりました。村中の人を受け入れ、薬草を煎じ、夜通し看病を続けました。私たちは修道女で、医者ではありません。それでも、目の前で苦しむ人を見捨てることはできませんでした」
尊は何も言わず、ただ静かに耳を傾けている。エレノアは、湯呑みの縁を見つめたまま続けた。
「昼も、夜も、祈っていました。『神様…どうか、この命をお守りください。どうか、この子たちを救ってください。苦しみを取り除いてください』…何度も、何度も、何度も祈りました」
その声が、少しだけ震える。
「けれど病は止まりませんでした。一人、また一人、祈りを終える前に…息を引き取っていきました」
エレノアは胸元の十字架をそっと握る。
「それでも私は神様は見ていてくださる、きっと意味がある…そう信じ続けました。信じるしかありませんでした」
長い沈黙が落ちる。やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「そんなある日、リリアが倒れました。」
その名が告げられた瞬間、薬草茶の湯気がかすかに揺れたように見えた。
「高い熱、止まらない咳、小さな身体が震えていました。私は昼も夜も付き添いました。冷たい布で額を冷やし、薬を飲ませ、眠れない夜は子守歌を歌いました。でも、熱は下がりません。日に日に痩せていきました」
エレノアの瞳に、涙がにじむ。
「その夜は、特に寒かったんです。窓の隙間から入る風が、蝋燭の火を細く揺らしていました。部屋の中は薬草の匂いと、濡れた布の冷たい匂いが混じっていて…リリアの呼吸だけが、浅く聞こえていました。私はずっと、手を握っていました。小さな指は熱に浮かされていても、まだ私の指を探すように動いていて……そのたびに、ぎゅっと握り返しました。離したくなかったんです。離したら、どこかへ行ってしまいそうで…怖くて」
声が、そこで一度だけ途切れる。
「それでもリリアは笑うんです。『シスター、泣かないで。神様が見てるよ』そう言って、私を励ますんです」
その言葉を口にした瞬間、エレノアの喉が詰まった。
「本当は苦しかったはずなのに、痛かったはずなのに、怖かったはずなのに、最後まで私を心配していました」
相談室には、風鈴の音だけが残る。ちりん…
「私は祈りました。これまでの人生で一番、心から祈りました。『神様、お願いです。私の命でも構いません。この子だけは、どうか…どうか、お救いください』」
エレノアは静かに目を閉じる。一筋の涙が頬を伝った。
「……朝になりました。窓の外が、少しずつ白んでいって、鳥の声が遠くで聞こえました。蝋燭はほとんど燃え尽きていて…最後の小さな火が、ふっと揺れて消えました。その瞬間……リリアの手が、ほんの少しだけ私の指を握り返したんです。とても弱く…でも、確かに握り返したんです。私は顔を上げました。リリアは、私を見ていました。熱に潤んだ瞳の奥で、まだ笑おうとしていました。『ありがとう』そう言って。それからもう一度だけ、息を吸って…静かに、目を閉じました」
そこで言葉が途切れる。部屋は、深い静けさに包まれた。尊は何も言わない。ただ、そこにある悲しみを急かすことなく、静かに受け止め続けている。やがてエレノアは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、あの日からずっと消えることのなかった問いが宿っていた。
「神様はどうして、何もお答えにならなかったのでしょうか」
その問いだけが、静かな相談室に残り続けていた。




