神を信じられなくなった修道女 2
松平は一歩前を歩き、静かな廊下を進んでいた。女性も、その後ろをゆっくりと歩く。足音だけが、木の廊下へ小さく響く。廊下の先が開けると、そこには異世界相談所の中心…四季庭が広がっていた。
「……」
女性は思わず足を止める。目の前の光景を、すぐには理解できなかった。春の桜が風に舞っているのに、そのすぐ隣では青葉が濃く茂り、さらにその向こうでは紅葉が燃えるように色づいている。視線を少しずらせば、白い雪が静かに降り積もり、季節の境目を何ひとつ気にすることなく庭を覆っていた。ありえない…そう思うのに、目は逸らせなかった。池では錦鯉がゆったりと泳ぎ、竹林の間を抜ける風が風鈴を鳴らす。
ーちりんー
鹿威しが、静かな音を響かせた。
ーコンー
その音が、胸の奥にまで落ちてくる。美しい、という言葉では足りなかった。懐かしい、という言葉でも足りなかった。見たことのないはずの景色なのに、どこかでずっと待っていたものに再会したような、奇妙な痛みが胸を締めつける。
春の明るさに、幼い頃の礼拝堂の窓辺を思い出す。夏の青葉に、修道院の裏庭で薬草を摘んだ日の匂いがよみがえる。秋の紅葉に、誰かの死を悼んで沈んだ夕暮れを思い出す。冬の雪に、祈っても祈っても届かなかった夜の冷たさが重なる。四つの季節が同時にあるという事実は、ただ不思議なだけではなかった。エレノアの中に、ばらばらに閉じ込めていた記憶を一度に揺さぶり、整理できないまま胸へ押し寄せてくる。
「……」
息を呑んだまま、彼女は庭を見つめ続けた。
「……美しい」
ようやく漏れたその声は、感嘆というより、戸惑いに近かった。松平は静かに頷く。
「この庭には、時間がありません。だから四つの季節が、共に息づいております」
女性は庭を見つめたまま、小さく呟いた。
「まるで……神様のお庭のようです」
その言葉には、敬虔さだけではなく、どうしてこんな場所があるのか分からないという畏れと、胸の奥をかすめる懐かしさが混じっていた。神は本当にいるのだろうか。もし本当にいるのなら、こんなふうに…すべての季節を同時に抱きしめることができるのだろうか。それともこれは、神ではなく、神を失った自分の心が見せている幻なのだろうか。松平は何も答えなかった。ただ穏やかな表情のまま、再び歩き出す。やがて一枚の障子の前で足を止めた。松平は静かに姿勢を正える。
ーコン、コンー
「尊様、相談者様をお連れいたしました」
少し間を置いて、穏やかな声が返ってくる。
「どうぞ」
「失礼いたします」
松平が障子を開ける。女性は静かに部屋へ入った。相談室は、先ほど目覚めた部屋とは少し違っていた。木の丸い机、向かい合う二つの椅子。窓の向こうには四季庭。そして机の上には、湯気の立つ二つの湯呑み。薬草の優しい香りが部屋いっぱいに広がっていた。部屋は豪華ではない。けれど、不思議なほど心が落ち着く。まるで何度も訪れたことがある場所のようだった。机の向こうで、一人の青年が微笑んでいる。どこか力の抜けた優しい笑顔。女性は自然と頭を下げた。
「初めまして」
青年も同じように頭を下げる。
「ようこそ、異世界相談所へ。僕は尊…ここで皆さんのお話を聞いています」
その声には、不思議な安心感があった。責めることも、試すことも、答えを押しつけることもない。ただ、そこにいるだけで肩の力が抜けていく。
「どうぞ、お掛けください」
女性は静かに椅子へ腰掛けた。尊も向かいへ座る。松平は薬草茶を二人の前へ静かに置いた。
「今日は薬草茶です」
尊は嬉しそうに笑う。
「僕も同じものをいただくね」
女性は少し驚く。
「同じものを……」
「はい」
尊は湯呑みを持ち上げる。
「ここでは、相談者さんと同じものをいただくことにしているんだ。一緒にお茶を飲みながらお話を聞く。それが、この相談所のやり方だから」
女性は薬草茶を見つめる。立ち上る香りが、懐かしかった。修道院の裏庭、小さな薬草畑。朝露に濡れた葉を摘み、皆で乾燥させ、お茶にしていた日々。その記憶の端には、いつも誰かの咳を抑えるために摘んだ葉の匂いが残っていた。思い出が胸をよぎる。そっと一口飲む。優しい温もりが喉を通り、冷え切っていた心へ静かに染み込んでいく。
「……懐かしい味です」
尊も一口飲み、微笑む。
「おいしいね」
その一言だけだった。無理に話を引き出そうとはしない。沈黙すら、この場所では大切な時間だった。しばらく静かな時が流れる。やがて女性は湯呑みを置き、胸元の十字架へそっと触れた。
「私は…エレノアと申します。修道院で、修道女をしていました」
尊は静かに頷く。
「エレノアさん、素敵なお名前ですね」
その言葉だけで十分だった。エレノアはゆっくりと息を吸う。
「人生を……お話ししても、よろしいでしょうか」
尊は穏やかな笑顔を浮かべる。
「もちろん。ゆっくりで大丈夫です。この場所には時間がありません。急ぐ必要もありませんから」
エレノアは小さく頷いた。そして窓の向こうの四季庭を見つめながら、静かに語り始める。
「私は、小さな村で生まれました。家は貧しく、決して豊かな暮らしではありませんでした。それでも両親は毎週、教会へ連れて行ってくれました。礼拝の帰り道、村の空が少しだけ重く見える日があったのを、今でも覚えています。神様は、いつも見守ってくださっている。幼い私は、その言葉を疑ったことがありません。ただ、祈ったあとに起きる出来事が、いつも願った通りになるわけではないことだけは、うすうす感じていました」
薬草茶の湯気が、二人の間をゆっくりと漂う。
「教会へ行くのが好きでした。祈りの時間も、賛美歌も、静かな礼拝堂も…すべてが、大好きだったのです。それでも、蝋燭の火が揺れるたび、どこか遠くで誰かが泣いているような気がして、胸がざわつくことがありました」
その瞳には、まだ信仰だけを信じていた少女の日々が映っていた。
「だから私は、迷うことなく修道院へ入りました。誰かを救う人になりたい。神様のお役に立ちたい…その一心でした。神に仕える道なら、あの胸のざわめきもいつか静まると信じていたのです」
尊は何も言わない。静かに薬草茶を口に運びながら、エレノアの言葉を受け止める。相談室には、薬草の香りと穏やかな静寂が満ちていた。その静けさの中で、エレノアは少しずつ、自分の人生と向き合い始めていた。やがて尊は、湯呑みを静かに置いた。その音は小さいのに、なぜかエレノアの胸を強く打った。
「エレノアさん」
穏やかな声だった。けれど、その響きには、これまでより少しだけ深い重みがあった。
「あなたが神を信じられなくなったのは、いつですか」
エレノアの指先が、胸元の十字架を強く握る。答えようとして、喉の奥で言葉が止まった。窓の向こうでは、四季庭の風鈴が、ひとつだけ長く鳴っていた。
ーちりんー
その音が消えたあとも、相談室には沈黙が残る。尊は急かさない。ただ静かに、彼女の返答を待っていた。エレノアはゆっくりと息を吸う。そして、震える声で口を開きかける。
「それは……」
その先の言葉は、まだ出てこない。けれど、彼女の瞳の奥には、もう二度と戻れない日を見つめるような、深い影が宿っていた。




