神を信じられなくなった修道女 1
畳の上に寝転んだまま、尊は縁側へ片腕を伸ばした。障子の向こうでは、四季庭の景色がひとつの庭に重なっている。枝いっぱいに咲いた桜の花びらが風にほどけ、そのすぐ隣で青葉が陽を受けて揺れていた。池のほとりには赤く色づいた紅葉が一枚、静かに落ちる。さらに奥では、白い雪が音もなく竹の葉を覆っていく。季節は違うはずなのに、どれも同じ空の下で、同じように息をしていた。風が竹林を抜けるたび、軒先の風鈴がかすかに鳴る。ちりん…続いて、鹿威しが水を受けて鳴った。コン…尊は湯呑みを傾け、湯気の向こうに広がる庭を眺めながら、のんびりと息を吐いた。
「……今日ものんびりだねぇ」
執務室は、この相談所で唯一、いつ来ても変わらない場所だった。畳の匂い。障子越しのやわらかな光。文机の上に積まれた備忘録。壁一面に並ぶ本棚。そして、縁側の先に広がる四季庭。理由は分からない。けれど尊にとっては、ずっと昔からそこにあった景色だった。
「尊様」
静かな声とともに、障子がすっと開く。松平だった。少女のように整った顔立ち。長い黒髪。感情を大きく表に出すことはないが、その声にはいつも落ち着いた温度がある。尊は身体を起こし、笑顔を向けた。
「おはよう、松ちゃん」
「おはようございます」
松平は小さく一礼すると、盆を縁側へ置いた。今日の湯呑みから立ちのぼる香りは、いつもの茶葉とは少し違う。青く、乾いた草の匂いが混じっている。尊は鼻先を近づけた。
「珍しいお茶だね」
「薬草茶です」
「薬草茶?」
「はい」
松平は湯呑みを手に取りながら、静かに続ける。
「少し前から、本棚のあたりに薬草の香りが漂っております」
尊は目を瞬かせた。松平は視線を壁際へ向ける。
「次のお客様の記憶かもしれません」
尊は湯呑みを口に運んだ。ひと口飲むと、最初にほのかな苦みが広がり、そのあとでやわらかな甘さが舌に残る。喉を通るころには、胸の奥までじんわりと温かくなっていた。
「おいしい、身体が温まるね」
「ありがとうございます」
松平も同じ薬草茶を口にする。相談者が飲むものと同じものを、尊も松平も自然に口にする。それがこの相談所では当たり前だった。尊は湯呑みを両手で包みながら、本棚へ目を向けた。そこには、名もない本がずらりと並んでいる。人生を終え、ここで語られ、そして前へ進んだ者たちの備忘録だ。その中に一冊だけ、何百年も変わらない、真っ白な背表紙の本がある。題名はない、名前もない。けれど今日は、その白さがいつもより少しだけ深く見えた。尊は首をかしげる。
「……まだ光らないね」
松平はその本を見つめたまま、短く答えた。
「はい」
それ以上は何も言わない。だが、松平の瞳はほんのわずかに細められていた。まるで、その本が何かを知っているとでも言うように。尊は気にした様子もなく、ふっと笑う。
「まあ、そのうち分かるかな」
その時だった。
ーカランー
鈴の音が、相談所の奥まで澄んで響いた。尊の表情がやわらかく変わる。
「お客様だね」
松平もすぐに立ち上がる。
「はい」
二人は執務室を出て、鈴の回廊へ向かった。回廊の天井には、世界中から集められた鈴が並んでいる。金色の鈴、銀色の鈴、木でできた鈴、陶器の鈴、ガラスの鈴、魔法で作られた鈴まである。けれど、鳴るのはいつも一つだけ。相談者が命を終えた、その瞬間にだけ鳴る鈴だ。まだ余韻を残すその音を聞きながら、尊は静かに微笑んだ。
「松ちゃん、お願い」
「かしこまりました」
松平は受付へ向かう。小さな木製の机、その背後の壁には、世界中の時計が並んでいた。柱時計、懐中時計、砂時計、魔法時計。どれも針を止めたまま、音もなくそこにある。相談者は必ず、この時計を不思議そうに見上げる。けれど、その理由を知る者は誰もいない。松平は受付を離れ、来訪者の部屋へ向かった。
その部屋は、柔らかな朝日が差し込む小さな一室だった。石造りの壁、木製の机、棚には何冊もの聖書、壁には一本の木の十字架、窓辺には白い百合の花が飾られている。慎ましく、清らかで、どこか祈りの匂いが残る部屋。誰かのために祈り続けた者が、最も安心できる場所。異世界相談所そのものが、その記憶をたどって形にした部屋だった。
だが、部屋の隅に置かれた小さな棚だけは、どこか異質だった。そこに一冊だけ、白い背表紙の本が置かれている。題名もなく、名前もなく、ただ静かにそこにあるだけの本。けれど、その本の周囲だけ、薬草の香りが少しだけ濃い。まるで、誰かの祈りがまだ乾ききらず、紙の奥へ染み込んでいるようだった。ベッドの上で、一人の女性が静かに瞼を開く。淡い茶色の修道服。胸元には小さな十字架。穏やかな顔立ち。だが、その瞳の奥には、深く沈んだ悲しみが宿っていた。
「……ここは」
声はかすれていた。見覚えのない部屋。それなのに、胸の奥がひどくざわつく。知らないはずなのに、懐かしい。懐かしいはずなのに、怖い。百合の香り、薬草の香り、朝のやわらかな光。そのすべてが、彼女の心を静かに撫でる一方で、同じだけ鋭く痛みを呼び起こした。祈りの場所だ、と直感した。けれど同時に、もう祈れない、とも思った。膝をつき、何度も額を床に押しつけた日々。声が枯れるまで神に願った夜。
どうか、どうかあの子を
どうか、あの命を
何度も、何度も
それでも返ってきたのは、沈黙だけだった。胸の奥で、何かがひび割れる音がした気がした。あの夜から彼女は祈るたびに、自分の声が空へ吸い込まれていくのを感じていた。神は聞いているのか。それとも、最初から聞いてなどいなかったのか。考えたくない問いが、喉元までせり上がる。彼女は無意識に胸元の十字架を握りしめた。指先がわずかに震える。
「……どうして」
声にならないほど小さな呟きだった。誰に向けたものか、自分でも分からない。神にか、自分にか。それともあの時、手を伸ばしきれなかった誰かにか。その瞬間…胸の奥に、はっきりとした痛みが走った。祈りたい…けれど、祈れない。信じたい…けれど、信じるほどに失ったものが大きすぎる。その矛盾が、彼女の中で静かに、しかし確かに暴れていた。その時、木の扉が静かに叩かれた。
ーコン、コンー
落ち着いた声が響く。
「お目覚めでしょうか?私は松平と申します。異世界相談所へようこそ、お迎えに参りました」
女性は息を呑んだ。その声は、あまりにも穏やかだった。拒絶も、詮索も、哀れみもない。ただ、そこにいることを許す声だった。胸の奥で張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。だが同時に、別の恐れが顔を出す。ここはどこなのか、なぜ自分はここにいるのか。そして、なぜ……この声を聞いた瞬間、泣きそうになったのか。彼女は唇を噛み、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
立ち上がろうとして、膝がわずかに震える。十字架を握る手に力が入る。まるでここへ来ること自体が、何か大きな運命の一部だったかのように感じられた。松平はそれ以上何も言わず、ただ静かに扉を開けた。女性は一歩、部屋の外へ出る。その瞬間、薬草の香りがふわりと強くなる。まるで、彼女の記憶の奥底に眠っていた祈りが、ここでようやく目を覚ましたかのようだった。
彼女はまだ知らない。この場所で、自分が失ったと思い続けてきた「祈り」と、もう一度向き合うことになることを。そして、あの白い背表紙の本が……まだ誰の名も持たぬまま、まるで彼女の到来を待っていたかのように、かすかな薬草の香りを漂わせていることを。




