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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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届かなかった手紙 5


輪廻の扉が、静かに閉じる。相談室には、ほうじ茶の香りだけが残っていた。尊はしばらく扉を見つめていたが、やがて小さく微笑む。


「行ったね」


松平も静かに頷く。


「はい。きっと次は、笑顔で届ける人生になります」


尊は嬉しそうに笑った。


「そうだといいな」


二人は相談室を後にする。静かな廊下を歩き、四季庭へ出る。春の桜が風に舞う。夏の青葉が光を受けて揺れる。秋の紅葉が池へ一枚落ちる。冬の雪は音もなく庭を白く染めていた。季節は違う。それでも、この庭ではすべてが穏やかに共存している。鹿威しが響く。


ーコンー


風鈴が鳴る。


ーちりんー


尊は縁側へ腰を下ろした。


「松ちゃん。郵便って、いいね」


松平も隣へ座る。


「想いを届ける仕事ですから」


尊は少し考えてから笑う。


「でも早川さんは、手紙より大きなものを届けていた。命、未来、ありがとう…目には見えないものばかりだった」


松平は静かに頷いた。


「だからこそ、最後は前を向けたのでしょう。」

「うん」


尊は立ち上がる。


「じゃあ、今日も備忘録を書こう」


二人は執務室へ向かった。異世界相談所で唯一、姿を変えない部屋。八畳ほどの和室、畳、障子、文机、積み重なった筆と硯、壁一面の本棚。縁側からは、いつもの四季庭が見えている。尊は文机の前へ座ると、真っ白な一冊の本を開いた。ページには、早川恒一の人生が静かに綴られている。尊は筆を持ち、墨を静かに含ませる。そして最後の一頁へ、一文字ずつ丁寧に書き始めた。


『あなたは最後の一通を届けられなかったと悔やみ続けた。けれど、その日あなたが届けた命は、誰かの未来となり、その未来はまた別の誰かへと受け継がれていく。想いは手紙だけではない。あなた自身の優しさもまた、多くの人の心へ確かに届いていた。だから胸を張って、次の人生へ進んでください』


筆が止まる。尊は静かに墨を置いた。


「……これで、おしまい」


本をそっと閉じる。今まで真っ白だった背表紙に、淡い金色の文字が浮かび始める。


『早川 恒一』


柔らかな光が本全体を包んだ。尊は立ち上がり、本棚の前へ歩く。静かに本を棚へ戻す。その瞬間、本はふわりと淡い光を放ち、本棚へ吸い込まれるように静かに収まった。相談所には、また一冊の人生が帰ってきた。尊はしばらく本棚を眺める。そして、その隣に並ぶ一冊へ視線を移した。


真っ白な背表紙、題名もない、名前もない。何百年もの間、そこにあり続けている本。けれど今は、ただ白いだけではなかった。ほんのわずかに、乾いた薬草の香りが、その頁の奥から滲んでいる。それは湯気のように立ちのぼるものではなく、もっと深く、もっと静かに、閉じた扉の隙間から漏れてくるような匂いだった。尊は首をかしげる。


「……これ、誰の本なんだろう」


松平はその本を見つめる。しかし、何も答えない。静かな沈黙だけが流れた。やがて尊は笑う。


「まあ、いつか分かるか。急ぐことでもないし」


そう言って、本棚から視線を外した。その時だった。松平の目が、ほんの僅かに本棚の奥へ向く。誰にも見えないほど小さな変化だったが、白い本の背表紙が…かすかに熱を帯びたように淡く揺れた。尊は気づかない。ただ、どこか遠くから流れてきたような薬草の香りに、ふと鼻先をくすぐられる。それは懐かしいようでいて、どこか胸の奥をざらつかせる匂いだった。


「……松ちゃん。今、何か匂わなかった?」

「はい」


松平は静かに頷く。


「修道院の薬草茶に似ています」


尊は目を丸くした。


「修道院?」

「ええ」


松平は静かに頷く。


「少し前から本棚の奥に、祈りのような香りが混じっております。次のお客様の記憶でしょう」


尊は不思議そうに首を傾げる。


「薬草の香りか…どんな人なんだろう」


その問いに、松平は答えない。答えられないのではなく、まだ言葉にしてはいけないというように、ただ静かに目を伏せる。障子の向こうから、柔らかな風が吹き込む。薬草の香りが、ほんのわずかに部屋を包んだ。その香りの奥には、深い祈りと、拭いきれない悲しみが静かに眠っている。けれど、それだけではない。そこには、誰かを救おうとした手の温もりも、信じることをやめられなかった心も、そして…何かを失ったまま、それでもなお扉を叩こうとする強い意志も、確かに混じっていた。


尊はまだ知らない。その次に現れる者が、ただの相談者ではないことを。祈りを捧げる者でありながら、祈りに裏切られた者。救いを求めながら、救いを拒むかもしれない者。そして、相談所の静けさを最も深く揺らすかもしれない者だということを。鈴の回廊の奥で、まだ誰にも鳴らされていない一つの鈴が、かすかに震えた。ちりん、とも鳴らないほど小さく。けれど確かに異世界相談所には、今日も穏やかな時間が流れていた。


その静けさのすぐ隣で、次の人生は、もう扉の前まで来ている。そしてその扉の向こうには、薬草の香りとともに、ひどく静かで、ひどく危うい影が立っていた。


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