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神様の備忘録  作者: 伊丹 宝


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笑えなかったコメディアン 5


相談室には、音のない時間が満ちていた。冷めかけたコーヒーの湯気はとうに消え、カップの縁に残る温もりだけが、かろうじてそこに時間があったことを示している。コウはそのカップへ視線を落としたまま、しばらく動かなかった。窓の外では、四季庭の桜が風にほどけ、紅葉が池へと落ち、雪が静かに降り続けている。季節は巡っているのに、この部屋だけは、まるで呼吸をひそめたまま止まっているようだった。長い沈黙のあと、口を開いたのはコウだった。


「……情けないでしょう」


力の抜けた笑みだった。


「芸人なのに最後まで…笑えませんでした。亮は、最後まで私を笑わせようとしてくれたのに」


言葉を重ねるたび、声は少しずつ細くなる。


「なのに私は病室では泣いてばかりで、葬儀でも泣いて、一人になっても泣いて、結局…笑顔で見送ることができませんでした」


握りしめた拳が、小さく震える。


「私は芸人失格です。相方失格です」


相談室は、また静かになった。尊はいつもの穏やかな表情のまま、ただコウを見つめている。否定もしない、慰めもしない。ただ、最後までその言葉を受け止めていた。しばらくして、尊が静かに口を開く。


「コウさん。一つだけ、聞いてもいいかな」


コウは小さく頷いた。


「亮さんは、最後まで何て言っていた?」


コウは目を閉じる。その声は、今でも耳の奥に残っていた。


「『行け、笑わせてこい。お前ならできる。俺の分まで』」


その言葉を口にした瞬間、コウの頬を一筋の涙が伝った。尊は、やわらかく微笑む。


「その言葉が、亮さんの答えだったんじゃないかな」


コウはゆっくりと顔を上げた。尊は続ける。


「笑えなかったことを、亮さんは責めると思う?」


コウは答えられなかった。尊は静かにコーヒーを一口飲む。


「…笑えなくてもいいから、生きていてほしかった。舞台に立っていてほしかった。その姿を、見ていたかった」


その声は、相談室の静けさを乱さないまま、ただまっすぐに届いた。


「人はね、いつも笑っていられるわけじゃない。悲しい時は泣いていい、苦しい時は立ち止まっていい。でも誰かを笑顔にした時間は、泣いた時間では消えない」


その言葉に、コウは静かに涙を拭った。


「……そうでしょうか」


尊は穏やかに頷く。


「うん。コウさんは、最後まで人を笑顔にし続けた。それは、誰にも消せない」


相談室に、やさしい沈黙が落ちる。その静けさの中で、ふいに風鈴が鳴った。ちりんー…小さく、澄んだ音だった。まるで、言葉の代わりに空気へ溶けていくような音。尊はその余韻が消えるのを待ってから、姿勢を正した。


「それじゃあ、コウさん。あなたに、三つの選択肢があります」


コウも静かに向き直る。尊は変わらぬ声で告げた。


「一つ…この相談所で、心が落ち着くまで過ごす。ここには時間がありません。急ぐ必要もありません」


少し間を置いて、尊は続ける。


「二つ、輪廻の輪へ還る。新しい人生を歩む。その先に、どんな出会いが待っているかは、誰にも分からない。そして、三つ目。少しだけ時を遡り、人生をやり直す。ただし未来がどう変わるか、その責任は僕にも誰にも取れない。選ぶのは、コウさん自身です」


相談室は、再び深い静寂に包まれた。コウは目を閉じる。長い時間、考えているようだった。その沈黙のあいだにも、風鈴は窓辺でかすかに揺れている。ちりんー…やがて、コウはゆっくりと目を開いた。その表情は、これまでで一番穏やかだった。


「……私は、輪廻の輪へ還ります。亮ならきっと、怒ります。『いつまで泣いてる。次の舞台へ行け』そう言う人ですから」


少しだけ笑う。その笑みは、舞台の上で作るものではなく、ようやく肩の力が抜けた人間の顔だった。


「今度は誰かを笑わせるだけじゃなく、自分も笑える人生を歩いてみたい」


尊は、やさしく微笑んだ。


「その選択、受け取った」


そう告げると、尊は静かに両手を合わせる。


ーパンッー


澄んだ柏手の音が、相談室の空気を静かに震わせた。その音が消えたあと、何もなかった空間に、一枚の古い木の扉が現れる。扉の向こうには、柔らかな光だけが広がっていた。コウは静かに立ち上がる。尊へ深く一礼した。


「ありがとうございました」


尊も静かに頭を下げる。


「こちらこそ。人生を話してくれて、ありがとう」


コウは扉へ向かって歩き出す。一歩、また一歩。相談室の静けさが、その背中を際立たせる。扉の前で、コウは一度だけ振り返った。その顔には、舞台の上で見せていた笑顔とは違う、肩の力が抜けた自然な笑みが浮かんでいた。


「……今度は、ちゃんと笑って生きます」


そう言って、光の中へ足を踏み入れようとした、その時だった。


「笑うの遅ぇよ」


低く、少しかすれた声。コウの足が止まる。ゆっくりと声がした方へ顔をむける。光の縁に、ひとり立っていた。腕を組んで、いつものように少しだけ不機嫌そうな顔。けれど、その目だけは、まっすぐこちらを見ていた。コウの喉が、かすかに鳴る。


「……っ亮」


呼んだ声は、ほとんど息だった。亮は肩をすくめる。


「泣きすぎ。顔、ひどいぞ」


コウは笑おうとして、うまくいかなかった。それでも、目だけが熱くなる。亮はそれを見て、ふっと視線を逸らした。


「まあ、やっと笑う気になったなら…それでいい」


コウは一歩、踏み出す。亮も、何も言わずにその場に立っている。二人の間にあった距離が、少しずつほどけていく。


「……遅くなった」


コウがそう言うと、亮は短く鼻で笑った。


「知ってる。だから待ってた」


その一言で、コウの肩が震えた。亮はそれ以上、何も言わない。ただ、顎で光の先を示す。行け、と言うみたいに。コウは何度も頷いた。


「……次は、ちゃんと笑う。ちゃんと、笑って生きる」


亮は目を細める。それは、昔から変わらない、少しだけ照れたような顔だった。


「それでいい」


尊は静かに、その様子を見つめていた。コウはもう一度だけ亮を見て、それから光の中へ足を進める。扉は、音もなく閉じた。残された相談室には、コーヒーの香りと、深い静寂だけが戻ってくる。尊はしばらく扉のあった場所を見つめていた。やがて、小さく微笑む。


「きっと次の人生でも、誰かを笑顔にするんだろうね」


その声は、部屋の中へ静かに溶けていく。すると、また風鈴が鳴った。ちりんー…今度は、さっきより少し遠く、少し長く。まるで、旅立った背中のあとを、そっと見送るように。四季庭の風に揺れながら、その音だけが、しばらく相談室の静けさの中に残っていた。


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